直木賞作家『姫野カオルコ』(姫野嘉兵衛)の応援サイト。ディープな読者も初めての方も大歓迎。

ジキル古賀プロフィール

1955年、茨城県西部の人口3万の町に生まれる。ちょうど3才づつ違う兄と妹あり。両親とも教師。祖父母の代に沖縄から移ってきたため名字が内地風でなく、なんとなく目立つのでいやだった。

幼時から小学校卒業まで祖母に連れられて剣舞というものを習う。同級生で剣舞をやっていたのは2人だけ。踊りはまったく憶えていないが、私の人格形成に大きな影響を与えていると思われる。近所の子供たちとわいわい遊んだ記憶があまりない。

夏休みの読書感想文で、確か今は解散してしまった自衛隊のアクロバット飛行チーム「ブルーインパルス」の話を書いて校内で金賞を取る。で、学校代表として全国に出すので「書名と作者名、出版社名」を教えろと言われて・・・こまった。なぜならその話は当時の「少年サンデー」だったか「ぼくら」だったか「冒険王」だったか忘れたが、そう、漫画に載っていた特集記事の感想文だった。子供なりに漫画に載っていたものの感想文では、認められないだろうとわかっていたので、「忘れました」と答えた。こうして小さなトラウマが形成された・・・ような気がする。もちろん学校代表にはならな かった。

中学ではサッカー部に入り、毎日練習の日々。メキシコオリンピックで日本が3位になり、一気に盛り上がる。3年生が辞めて、自分たちの代になった時にユニフォームを新調することになり、選んだのがブルーだった。部員で話し合って当時としては大金(部費で足りない分で一人千円ぐらいだったような気がするが)を集めたら、練習に出てきたこともない顧問の先生に呼び出されて「学校ではそんなことを決めていない」と言われる。ちなみに私がキャプテン。結局注文をキャンセルできないからと、無理矢理購入した。しかし、何だかとっても悪いことをしたような気になり・・・またもや小さな トラウマが形成された・・・ような気がする。毎日運動部の中では一番遅くまで猛練習していたにもかかわらず、市の大会では2位ばかりで県大会に出ることはなかった。しかし、その様子を見ていたバレー部の熱血教師(時々練習に付き合ってくれた)が顧問になった一年下の世代は、県大会で優勝して全国大会に出た。なんでやねん。

当たり前のように地元の高校(一応進学校)に行く。引き続きサッカーに打ち込む。しかし、夏休みに友人たちと大洗海岸にキャンプ(確か一泊)に行き、帰ってきて練習に参加したら「シゴキ」が待っていた。「うさぎ飛び」をたくさんやってもサッカーはうまくならないぞ。それでもサッカーは好きだったので頑張るが、丁度3年になる頃に試合で怪我をする。サッカーだけでなく体育の授業すら見学の日々。急にやることがなくなって、それを埋めるように(以前からギターは弾いていたが)当時流行っていたフォークソングにはまる。成績は入学時からすると300番ほど下がる。一学年の生徒数 は300人ちょっとですよ(ちょっと自慢)。やっと怪我が直った時には、もう高校最後の試合が近かった。結局というかやっぱりというか県大会に進めず敗退。で、一つ下の世代は県新人戦優勝。なんでやねん。
さて、まわりはもう受験勉強一色で進路指導などを受けている中、完全にギターにハマっていた私は、バンドを作り田舎のコンサートに出たりする。南沙織が隣町に来た時には、学校をサボってチケットもなしで会場に入り込み、持っていったギターにサインをもらう。田舎では完全に不良である。好きな女の子に曲を 作ったりもした。タイトルは「クリスマスイブ」・・・アア、恥ずかしい・・・。ある日、2時限目から学校をサボって東京に行き、フォークソングの雑誌「新譜ジャーナル」や「ガッツ」に広告が載っていたお茶の水の石橋楽器に面接に行き、就職を決めてくる。この頃は進学させたい親と完全に積み木くずしの断絶状態。

そう言えば当時、積み木くずしの状態から早く抜け出したくて、一度だけ家出を試みたことがあったっけ。何はなくとも金が必要と、自転車で通りかかった工事屋さんで「何でもしますから、仕事させてください」と飛び込み、ゲットしたのが井戸さらいの超ハードワーク。さすがに私は井戸の中には降りなかったが、汲み上げられる泥をひたすら運ぶ仕事。全身泥まみれで家に帰り、こそこそと洗濯をした。で、翌週は仕事に行かず。そもそも家出の前に資金調達のハードな仕事に挫折。日当1500円だった。

1974年春。飯田橋にあった寮(と言っても1Kの民間アパート)から、お茶の水の石橋楽器に通い始める。念願の一人暮らし。高知のギター工場に修理技術の研修(2ヶ月間)に行ったり、石橋楽器が主催していた日仏会館でのコンサートに出たりと、それなりに楽しかった。

3月10日・・・ 小野田寛郎元日本陸軍少尉、フィリピンのルバング島から30年ぶりの復員。

5月4日・・・堀江謙一、マーメイド3世号で単独無寄港世界一周成功。277日目の帰還。

6月18日・・・インドが地下核実験に成功。6番目の核保有国に。

8月8日・・・アメリカ大統領ニクソン、ウォーターゲート事件で引責辞任。

8月30日・・・東アジア反日武装戦線、三菱重工本社ビルを爆破。

10月14日・・・長島茂雄引退。

12月21日・・・フランス映画「エマニエル夫人」、日本女性に大ヒット。

この年に創刊された雑誌は「GORO」「ビックリハウス」「野性時代」など。ベストセラーは「カモメのジョナサン」。レコード大賞は森進一の「襟裳岬」。ああ、すっかり当時にタイムスリップして甘酸っぱい気分に浸って・・・はっ、これはただのプロフィールページなのだ。年はかわって、

1975年、4月サイゴン陥落(解放)。ベトナム戦争終結。

それなりに楽しかった生活も、一年過ぎてみると何だか思っていたものと違うという理由のない焦りの日々。なぜか知らんが福岡に住んでみたいと思い、本屋でガイドブックを見ていて、シベリア経由でヨーロッパに行く便が安いということを知る。

で・・・本当に唐突ですが、

夏、19才の私は、横浜港から出港したバイカル号でナホトカに向かった。なぜだー? と、言われても・・・わからない。

バックパックを背負い、ギターを持った渡り鳥・・・じゃなくて、私は19才から23才まで(75~79年)ヨーロッパ各国を放浪した。そもそも片道切符しか持っていなかったうえに、お金もたいして持っていなかったので、ロシア(当時はソ連)を抜けるのに1週間かかり、フィンランド・スウェーデン・デンマークと回って1ヶ月が経った時点で、もう所持金が帰りの切符代を割り込んでしまったのだ。

で、もちろん働きましたよぉー。コペンハーゲンのレストランで半年。パリのレストランで半年。ストックホルムのレストランで半年。残りの期間は各国を回りながら路上でギターを弾いて、小銭を稼いで暮らす。主に冬はレストランで働き、春から秋まで各地を回る生活。泊まる所はユースホステルやYMCA系の安宿。知り合った人に泊めてもらったり、お金がなければ平気で野宿。移動はヒッチハイクもしたが列車が多かった。23才以下のヨーロッパフリーチケット(インターレールチケット)。買った国の中は通常料金の半額取られるが、国外にでるとヨーロッパ内は全て無料というチケット。泊まる金がなくて天候も野宿向けではない時、よく空いている夜行列車を選んで乗ると、コンパートメントを独占してぐっすり寝ることができた。朝になるとここはどこ?って感じだけど・・・。

チケットの期限(1ヶ月)が切れそうになると、例えばスイスにいたら、時刻表とにらめっこして、ちょうど最後の日にわざわざルクセンブルグ共和国に行って、またチケットを購入。買った国内は半額払うことになっているが、ルクセングルグから国外に出るというのは市内を出ると同じで100円ぐらいしかかからない。実はリヒテンシュタインも検討したのだが、鉄道が通っていなかった。4年間で訪れた国は15カ国ぐらいか。あまり観光地は行ってなくて、場所を選ぶ基準がギターを弾ける街並み(場所)があるかどうかだった。

当時のことを書き始めるとプロフィールどころか大河小説になってしまう。いろいろ強烈な体験があって・・・。そうそう、もう時効だろうから一つだけエピソードを。77年の夏、私は知り合いから仕入れたアクセサリーとギターと寝袋だけを持って、スウェーデン南部の小さな町に行った。マーケットの前などで道路に敷物をしてアクセサリーを並べて売る仕事。で、なんと・・・警察に連行された。実は路上での物売り(しかも外国人の場合)は違法。ギターを路上で弾いてお金を貰うのも厳密に言うと違法で、いろいろ各国でトラブルはあったが、割と大目に見てもらえていた。が、この時はすごかった。

いきなり留置所に放り込まれ、翌日簡単な取り調べのあと車でそのまま国境まで連行。フェリーで海を越えてデンマークに着いたと思ったら、またそのままデンマークの留置所へ放り込まれた。翌日コペンハーゲンへ連れて行かれて、無理矢理少ない所持金からハンブルグ(ドイツ)までの列車切符を買わされる。そして国境を超えるまで両脇に警官が座り、ドイツに入ってやっとパスポートを返されて、警官はいなくなった。

翌朝・・・私は、売れないアクセサリー少し・寝袋・ギター・数千円の金、そして「以後6ヶ月スカンジナビアへの入国を禁ず」という赤いスタンプが押されたパスポートだけを持って、着の身着のままでハンブルグ駅にいた。元々たいした物は持っていないが、着替えやなにかが入ったバックパックは1000キロ以上離れたストックホルムの友人に預けたまま。いったい・・・どないせーっちゅうねん。

しょうがないので、とりあえずハンブルグのユースホステルに泊まって街でギターを弾いて食い扶持を稼ぎ、パスポートは捨ててしまった。オイオイ・・・。 で、領事館に行ってパスポート紛失を理由に再発行を求めたら・・・開口一番、外務省の木っ端役人が言ったのが「ん? 再発行? 1ヶ月かかるよ。あんた、本当は持ってんでしょ」だった。もし本当に紛失して、こまっている旅行者だとしたら、1ヶ月も待てるわけはないのだが・・・。「ハンブルグの警察で紛失証明をもらって出直して来い。シッシッ」と、ボロクソの扱い。

冬の寒い日にストックホルムの地下道でギターを弾いていた時、日本人の外務省役人の妻(毛皮のコート着用)に「あなた、何やってるの。こんなとこで。日本人がこんなホームレスみたいなことして・・・」と、言われたこともある。25年後の今ごろになって外務省の体質が問題になっているが、昔からエリート意識の塊であったのだな。話が逸れた。えーっと・・・。で、どうなったかって?

もちろん、1ヶ月かけて新しいパスポートを手に入れ、スウェーデンに戻ったわい。途中の国境越え(デンマークとスウェーデンの2つ)は、何だかスパイ大作戦のような緊張感でありましたっ。

あんまりプロフィールが長いので、ここからは駆け足で紹介。

1979年・・・秋に帰国。取りあえず行く所がないので実家に戻る。たった4年間なのに様々なカルチャーショックあり。まず成田空港が営業していて「へ?」実家には見知らぬ女性が赤子を抱いていて「ん?」兄嫁と甥だった。友人たちと久しぶりに飲みにいったらカラオケで「えっ?ピンクレディーって何?」そもそもカラオケ自体を知らなかった。

1980年・・・東京で就職しようと面接したら勤務地がつくばだった。国際協力事業団(JICA)つくばインターナショナルセンター勤務。開発途上国(やな言い方だ)から、つくばの各研究所に研修に来る人たちの宿泊施設。ホテルみたいなもので、私はフロントで働く。雇い主はJICAではなく、東京のビル管理会社。3年で退社。

1984年・・・借金をしてつくば市内にライブハウス「PARADOX」を開く。 一年間は無理して、いろんな人を呼んでライブをやったが、その度に赤字。2年目からは ライブをやめて普通の店として営業する。

1989年・・・カヌーやマウンテンバイクにはまる。アウトドアのサークルを作り、いろんなイベントを企画。キャンプやツーリング三昧の日々。「つくばカップ」というマウンテンバイクレースも5回開催。個人的にも各地のレースに出場し、優勝も経験。骨折2回。今となっては過去の栄光で、たくさんあったトロフィー類は実家の物置でゴミになっている。

1995年・・・遊び過ぎて店の経営が傾き、借金をして大改装し本格バーとして 再出発。アウトドアの遊びをきっぱりやめて酒の勉強をする。

2000年・・・25年ローン(死ぬまでか?)を組んで、元木工所だったボロ建物を買う。一階を改装して店を移転。

2001年・・・3月。あまりにも客が来ないので、ホームページでも作ってみようかとマニュアルを見ながらメモ帳でペチペチとタグを打ち込んでバーのサイトを起ちあげる。取りあえずいろんな話題を盛り込もうと 本の紹介ページを作り、その中の一つとして以前から好きだった姫野作品の紹介をする。ふと、文庫本に書かれていたファンサイトのURLが気になって見てみたら・・・。未読の作品が多数あることを知る。ネット通販で手に入れては紹介を書くうちに、バーサイト内部に姫野サイトが出来てしまう。6月。どーんと姫野さん専門サイト「ジキル古賀のヒメノ式で行こう」を独立させる。


というわけで、2002年5月現在。私はこうしてキーボードを打っているんですが、なんだかプロフィール っちゅうものはこーゆーんじゃないですよね。




時は過ぎて、今は2014年の7月。ここのプロフィ―ルを更新せずになんと12年も経ってしまいました。サイトを作り始めた時はWIN-95のでっかいデスクトップマシンでしたが2006年になってさすがにいろいろ問題が起き始めてWIN-XPに買い替え。それにともなって音楽関係のソフトもほとんど総とっかえになったのですが、いろいろ不具合が出て以前のように作曲や制作の環境がうまく整えられませんでした。

仕事は地元の観光協会とかが作るDVD(例えば霞ケ浦の観光帆引き船の紹介)のシナリオなどを書いたりしましたが、まとまったお金にはなったものの単発の仕事でしたしバーのほうは開店休業の状態でした。それで夜中に宅急便の仕分けのアルバイトなどに出たりもしていましたが、ある日仕事中に転んで膝を痛めてしまいました。思いのほか症状が重く靭帯の損傷で半年近くろくに動けなかったのですが、本来は労災なのに動けなくなった翌月に会社から言われたのが
「今月分の保険料の支払いをしてれ」という話。

なんだかなあ・・・。もうすっかり働く気がなくなってしまい、そのままその会社には連絡も出勤もするのを止めてしまいました。しばらく動けなくてよかったことがひとつだけあって、タバコを止めました。いちばんひどい時期にはタバコを買いに行くこともできなかったので。

膝のリハビリを兼ねてスポーツタイプの自転車に乗り始めたら、すっかりはまってしまい円安もあって海外からフレームやパーツを買ってロードレーサーを作ったりしました。

同じ頃、郵便配達の仕事を始めて最初はバーの仕事と合わせて何とか食えるギリギリの感じでしたが、今はフルタイムの期間雇用契約社員になって半年ごとの更新を続けています。 さすがに時給は上がってローンを返してもなんとか食べていけるようになったので、バーの営業は完全にやめてしまいました。もう続けるモチベーションもなくなってしまい惰性でやっていたようなものだったので。

大きな変化と言えば2005年に妹が東京から引っ越してきて3階に住み始めたことでしょうか。契約社員ではありますが、こちらで職を得てフルタイムで働いています。妹も縁がなく私と同じ独身で、この先ずっと東京で一人暮らしをするには限界を感じたのかもしれません。3階は元々2001年に姫野ファンの第二回オフ会を開くために一室だけリフォームして、以後そのままになっていたのですが、寝室とダイニングキッチン、納戸を私が総額7万円ぐらいでDIYリフォームして妹が住むことになりました。

そして父が自動車事故にあいます。 詳しくはジキルの極私的書評内のこちら(スクロールした下のほうの記事)をどうぞ。幸いに命をとりとめた父は2014年の今年91歳になります。

2014年1月、姫野さんの「昭和の犬」が第150回直木賞を受賞。こうしてファンサイトを運営し、その縁で公式サイトの制作運営をするようになっていた私にとって人生で一番うれしく、晴れがましい気持ちになった出来事でした。

2014年7月現在、PCはサポートが終了したXPからやっとWIN8.1になりました。実は先にiMACを購入していて現在は3台体制でセキュリティやバックアップの態勢も整っています。2001年当時に非力なマシンで作ったヒメノ式ベストなどのコンテンツが現在はうまく表示されないものもあって、悩みの種になりつつあります。いつになるかわかりませんが、このジキルサイトのリニューアルが現在の目標。

ページのトップへ戻る