直木賞作家『姫野カオルコ』(姫野嘉兵衛)の応援サイト。ディープな読者も初めての方も大歓迎。

『風のささやき〜介護する人への13の話〜』角川文庫
2011年7月

文庫版では姫野さんが「はじめに」で、この小説の成り立ちや読み方を詳しく説明されています。13の物語は様々な境遇で様々な思いを胸に介護する人のささやき、日常的な話し言葉で綴られた詩のような文章と、淡々と状況を綴ったプロフィールがセットになっています。

それぞれのプロフィールは、短い文の箇条書きのようなものなのに、数十年に及ぶ親と子のあるいは介護される者とする者の人生が凝縮されていて、ひとたび想像のスイッチが入れば物語の背景は無限に広がって、しかも細部に宿るリアリティが起ち現れて怪しいオーラを放ちます。そして読者は「ああ、自分だけではないんだ」と物語を反芻することが出来るのです。

ぜひプロフィールの後にもう一度モノローグ部分に戻って読んでみてください。そうするとなにげない“ひとつの言葉”が介護される者とする者の錯綜する数十年の時間を経て、搾り出された重い重い“ひとつの言葉”であることに気がつくことでしょう。

巻末にある藤田香織さんの「十四番目のささやき 解説にかえて」も、実際に介護を体験されている藤田さんの偽りない心情が吐露されていて心を打ちます

介護に携わっている人はもちろんですが、家族親族身内に重病人がいるというそのことだけでも気分がふさぎ何かどんよりと重たい空気に包まれて、対人関係に影響を及ぼしたりします。そんな人が本書を読み、姫野さんが言うように本書に向かって思いのたけを愚痴を弱音を吐き出す(十五番目のささやき・・・)ことで、少しでも気分転換になることを心からお祈りします。



もう私のことはわからないのだけれど・日経BP出版
2009年6月
発売前の紹介で「詩集」というフレーズが使われていて???な気持ちでしたが、一読してその意味がわかりました。細かい背景説明のないまま散文的なモノローグが続き、最後に個人プロフィールという形である程度具体的な背景がわかるような構成になっています。そうした個人の背景を理解したうえでその個人が発したモノローグを読み直す(あるいは読んだ直後なので記憶に残る言葉を反芻する)と、何気ない言葉に込められた市井の人々の魂の叫びが聞こえてきます。

それぞれの語り手に共通するのは、現在の苦境(本人はそう言いませんが、そうでない人から見れば苦境に違いありません)は本人が招いたことではなく、ある意味運命のようにして訪れた状況に戸惑いながらも淡々と対処している(ように見える)ことです。それでも時に溢れる言葉の中から聞こえる嘆きとそれを受け止めようとする人の業とにじみでる無常観。

いわゆる「ポエム・ロマンティック・韻律・芸術」といった言葉に代表される定型の「詩」という趣ではなく、時として残酷な現実を語る散文(韻律の制約をうけない普通の言葉)によって成されたそれはボードレールにまで遡る散文詩の文学的表現と言えるでしょう。

それぞれの語り手はそれぞれの事情を抱えています。読み手もそうであるように・・・。

例えばこのタイトル「もう私のことはわからないのだけれど」に、私はとてもリアリティを感じます。ちょっと長くなりますが、ジキルの「もう私のことはわからないのだけれど」の物語にお付き合いください。

私が自宅で営業しているバーは、スノビッシュなマニア向けの店で、それなりの固定客もいました。しかしなかなか生活は苦しく、以前は深夜の宅急便荷物仕分けのバイトなどをやっていましたし、ちょっとした地元のメディア関係の文章を書いたりネットで執筆したりもしました。それに実を言うと多少の家賃収入もあるのでそれらをまとめると、なんとか生活はできるという経済状況が続いていました。

自分の生活は厳しくとも店では優雅で上品な時間を演出しなければなりませんが、あまりに実生活と乖離するとなかなかこれが大変です。そこに追い討ちをかけるように道交法の改正で飲酒運転に対する罰則が厳しくなってからというもの、客足はぱったり止まり、私自身の営業に対するモチベーションも完全に下がってしまいました。

あれは4年前の冬でした。ある日趣味のサイクリングから帰ったら、家の水道管が破裂していて慌ててあちこち電話してやっと来た見知らぬ若造の水道屋にぼったくられて、簡単な工事に十数万も請求されたことがありました。実はこの時、私はその金がなくて同居している妹に借りたのです。もう限界でした。

このままじゃいけないと必死に求職活動をして49歳の私がやっと得た仕事は自転車の郵便配達。以前よく掲示板2で自転車に乗ったサルの郵便屋のアイコンを使っていたのはそれが理由です。実は趣味の自転車を生かしてカッコよくメッセンジャー便で毎日自転車に乗ることができれば最高だったのですが、田舎のつくばではメッセンジャー便という職種自体がありません。あと自転車に乗る仕事といったら新聞配達か郵便配達かしかありませんで・・・。


昔だったら、とうふ売りとか納豆売りとか荷台に道具を積んだ砥ぎ師とかもいましたけどね。いったい昔っていつ? 

仕事自体はいやではありませんし、配達に出れば一人だし黙々となにかをやるのは嫌いではありません。それに「郵便配達は二度ベルを鳴らす」してみたかったし・・・ふっふっふ・・・奥さん・・・あっ、いやいや。しかしいかんせん条件がねえ・・・。なにしろ時給780円で基本は6時間勤務の週休2日。つまり一ヶ月フルに働いても8万から残業があったとしても10万。正直言って店が儲かっていた頃なら一日の営業で手に入る額なのです。

それでも定時なら9時から3時45分までの仕事なので、店やネットの仕事も続けられるということで働くことにしました。配属先は家から自転車で15分の小さな出張所。配達区域は公園の周りに公務員団地が建ち並ぶ牧歌的な地域でした。

働き始めて2週間、やっと少し慣れてきた頃のことでした。

残業(郵便物が多いと当然配達に時間がかかる)して6時過ぎに帰宅すると真っ暗な部屋で珍しく緑色の留守電ランプが点滅していました。再生すると切迫した母親の声・・・私が帰ってきたと知って階段を駆け下りてきた妹はすでに内容を知っているようで無言。82歳になる父親が事故で病院に運ばれたとのこと。

妹と病院へ行くとちょうど父がCTか何かを撮るらしく担架に乗せられて行く所でした。一瞬しか姿が見えせんでしたが、父はまったく動きませんでした。動揺してまとまらない母の話を聞くのにずいぶん時間がかかりましたが、父は自転車で散歩を兼ねて近所のホームセンターに向かうところだったようです。相手は大型トラック。事故があったすぐ近所の人が母に知らせてくれて、母が現場に着いた時にまだ父は横断歩道で倒れたままだったそうです。

外傷は鎖骨骨折ぐらいでたいしたことはなかったのですが、なんと言っても頭部強打による脳内出血があり意識不明の重体とのことで、その夜から数日が山だと言われました。年齢的に手術はリスクが高くてできないとのこと。集中治療室でたくさんの管に繋がれて身動きもしない父はまるで枯れ草に埋もれた現代アートのオブジェのようでした。

心拍モニターをぼーっとながめながら思い出したことがあります。十年ぐらい前、何の用事だったのかは覚えていませんが父と食事をし、その後本屋に行ったのです。私がなにか買うものがあって父はなんとなく付いてきただけだったはずなんですが、その時に珍しく父が買った本のタイトルが確か「病院で死ぬということ」だったのです。私はちらっと表紙を見ただけですし、その時にもそれからも父と死について話したことはありません。

それから毎日配達の仕事が終わると自転車で自宅に戻り、すぐ車で病院へ行くという生活が続きました。日曜と週一日ある平日の休みは実家の母親を送り迎え。幸い父は命をとりとめて10日後には一般の重症病棟に移りましたが、あいかわらず意識ははっきりしません。目が開いていてもそこに意識というか理解の色はなくどんよりとして表情もありませんでした。

二ヶ月が過ぎて鎖骨の骨折箇所が少し繋がってくると多少は体を動かすことができるようになり、点滴や鼻のチューブ(食事?用)はそのままですが、車椅子に乗せて病棟の廊下を散歩する許可がでました。父はときおり目を開けては自分のいる場所がどこなのか把握できずに戸惑う様子でしたが、「もう私のことはわからないのだけれど」は、この頃を思い出させます。

実を言うとこの頃に例えば車椅子を押しているのが私であることを父が理解していたとは思えません。それでもまったく反応がなかった頃からすると奇跡だったのです。私たち家族は全員、父がそれ以上回復するとは思っていませんでした。CT写真で見る脳内出血によってダメージを受けた範囲はおもいのほか広かったのです。

事故を巡る保険会社や相手の運送会社との示談折衝は煩雑で遅々として進みません。母はそういう実務がまったくだめなので実家で同居している長男がやっていました。ある時、相手方のドライバーが何ヶ月も経った今頃になって父側の信号が赤だったようなことを言い始めたらしいという話がでました。それを聞いた母がきっぱりと断言したのです。

「あの人は信号を赤で渡るような人ではない」

そしてそれを聞いた周りの家族全員が目撃したわけでもないのに、当たり前のこととして静かに納得したのです。父はそういう人でした。

4年後の現在、父は86歳になってまだ生きています。それも自力で歩き、会話し、なんということでしょう・・・碁を打ちます。事故で入院して半年ちかく過ぎた頃に、父が鼻の管をいやがって自分で取ってしまいました。多少体力も回復していたこともあって、試しに経口食に変えてみようということになったら、それからの回復が奇跡的でした。みるみる表情が生き生きとしてきて言葉も発するようになり、ついにある日病室に入った私の名前を呼んだのです。

「もう私のことはわからないのだけれど」という状態は不可逆的なものだと思っていたので、バリバリの無神論者の私でさえ神に感謝しました。もちろん永遠に失われた脳機能もあって、時々言葉が出てこなかったりモノや人の名前を間違えることも多いし、多分複雑な論理思考はできない(碁はどちらかというと考えているのではなく記憶に残った部分を引き出しているみたい)し、新しいことも覚えられないようです。

実は神に感謝していることはまた別のことなんです。脳へのダメージによって父が失ったものに細やかな感情表現があります。ところが神の気まぐれか、失った表現というか感情は喜怒哀楽のうち「怒哀」の部分がほとんどで「喜楽」の部分はうまく残ってくれたのです。ついこないだも父は胆石で一ヶ月間別の病院に入院していましたが、看護婦さんたちにニコニコと接する父は「癒し系の○○さん」と言われて人気でした。

実家に行って父に会うと、父はいつもニコッと笑って「ヨッ!」と手を上げます。

追伸・ところで私は今も自転車で郵便配達をしています。いわゆる非正規社員という立場ですが現在は多少時給も上がり8時間のフルタイムで働いていて、店の営業は完全に止めてしまいました。一時ストップしていた趣味のサイクリングが復活し、来月は自転車の耐久レースに出場予定。煙草は4年前に止めました。サイトのジキルプロフィールが古くなって気になっていたので、この機会にちょっと近況もお知らせ。

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