直木賞作家『姫野カオルコ』(姫野嘉兵衛)の応援サイト。ディープな読者も初めての方も大歓迎。

『悪口と幸せ』 光文社
2023年3月

美貌も
知名度も
偏差値も
功績も
すべてをぶっとばす、あの部分
ルッキズムの悪口は蜜の味?
ヒメノ式「家族の寓話」へようこそ
昭和---平成---令和
それぞれの時代の風俗を巧みに取り込みながら
容姿への疑問と不安を物語に昇華させた連作集

本書のテーマは容姿に関することではありますが、その切り口は多面的でひとくちにルッキズムの功罪を語っているわけではありません。そもそもルッキズムに明確な基準はあるのかという問題があります。時代によって美(あるいは単にかっこいい)の基準は変遷するのは自明のことですし、こと日本に限って言えば明治以降の西欧化によってそれまでとは異質の基準が持ち込まれたわけで。令和の現在良いとされている容姿が100年後にも良いとは限らない。

私のような昭和世代はそもそも胴長短足の時代に生きてきて、現在の若者たちの伸びやかな姿態を見ると隔世の感があります。ファッションはある意味時代を超えてグルグル回ったりするので、「あぁ、今はこういうのが流行りなのね」で済むんですが、体形は流行もなにも基礎が変わってきちゃってますからねえ。昔は滅多にいないから8頭身が美男美女の代名詞でしたが、今や10頭身でもないと驚かれません。
まったくティム・バートンのナイトメア―・ビフォー・クリスマスじゃあるまいし、ハリガネみたいな体に小さい頭が乗っているのがそんなにかっこいいですか。
なんてことをSNSで言うと「何をこのハゲ散らかした絶壁のデブ眼鏡」などと事実ではあるけど言われた当人は傷つくことを書かれたりする時代です。 そう、私はいわゆる絶壁頭です。
若いころは特に気にしていなかったのですが、50才を過ぎた頃、薄くなった髪の毛の手入れというか髪型に迷って(だってどんな髪型にしたところでハゲなわけで)坊主頭にしてからは後頭部の絶壁が目立つようになり、まあ頭の形を変えるわけにもいかないのでしょうがないと思いつつ、かっこ悪いなあと思っています。

ところで、この「ハゲ」というのは自主規制の対象になりつつあるようですが他にどう言えば良いのか。髪の毛が不自由な人?
20年前ぐらいに現在と比べて円が高かった頃。私は趣味の自転車関係の部品やアクセサリー用品などをよく海外から買っていました。で、ヘルメットもたくさん買いました。いわゆるロードレース用なのでイタリア製のものなどは日本で買うと2〜3万円のものが半額ぐらいでした。
通販の問題点は試着ができないことなんですが、ヘルメットの場合は例えば頭の周長54センチから60センチがサイズMとかで内部の機構などで調節するようになっています。買い始めた当初、自分の頭をメジャーで計って買ったのに若干きついのが不思議でした。使えないほどきついわけではなかったので同じサイズのものをまた買ったりしていました(中の緩衝材が劣化したりアゴひもの取り付け部品が壊れたりします)。
3個目の時はワンサイズ上のものにしました。それでも少しきつい感じがして初めて頭の大きさ(周長)ではなく形状が問題なのだとわかりました。イタリア製のものは前後に長い形のため周長が同じでも幅が狭く出来ていたのです。調べてみたら人種によってある程度類型があっていわゆる欧米の白人は正面から見て幅が狭く後頭部は後ろに出っ張っているのに対して、日本人は幅が広く後頭部が直線的でいわゆる絶壁頭が多いことがわかりました。
とは言え、もちろん個人差や世代差もあるようで、最近の若い人たちは欧米型の縦長が増えてきているようで、私からするとちょっとうらやましく思います。

うらやましく思いつつ疑問が浮かんだりします。つまり私の美の基準は欧米型の基準に依っているらしいということ。
最近TVでよく見るのが芸能人などに遭遇した時に最初の反応が「やばい顔ちっちゃい」っていうもの。小さい=良い、大きい=悪い、という揺るぎなき価値観に支配されたパブロフの犬みたいな反応です。私なんかの世代だと顔がでかいのが普通ですから確かにたまに見る小さい顔は特異でしたが、現在はそこまで違いがわかるような差はないんじゃないかと思います。そもそも顔の大きさそれ自体は美醜とは関係ないですし。

容姿は持って生まれた基礎土台と環境や知識経験によって変わる見た目や印象とがあります。ボロをまとった美女と緻密な化粧と計算されたファッションのブス(これも使えない言葉になりつつある)は簡単には優劣をつけられない。こういう話をすると「そんなもん化粧を落として素っ裸にすりゃはっきりするさ」などとおっしゃる人がいますが、「じゃあ、あなたは人を見るとき素っ裸にしてるんですか」と言いたいですね。人は思いのほか人自体を見ていなくて、雰囲気に流されているんですね。
性格などの内面的なものは本当のところは会話しないとわかるはずもありませんが、発しているオーラみたいなものは確かにあって、印象というのはなかなか馬鹿にできません。 ですから印象を売っているとも言える芸能人は持っている土台を磨く(歯列矯正や体形維持や肌のケア)のはもちろん、外見の印象を意図的に操作することには長けています。
昔から姫野さんは芸能人が整形したりするのを。容姿のプロであれば当然のことと書いています。私もそう思いますが、ある程度の年齢になってからは少し落ち着いて過度に若さだけを求めないほうが良いと思っています。永遠の若さはあり得ないし過度のアンチエイジングは不気味ですらあります。老いは抗うものではなくてうまく付き合うものだと思います。

話はかわってこのところ私はYouTubeでクラシックギター演奏を見ています。例えば曲名を英語で検索すると世界中のギタリストの演奏が出てきます。昔は考えられなかったことです。で、それぞれの演奏を見ながら手元の譜面と照合して弾き方を研究したりしています。以前は演奏を動画で見ることもなかったので、CDとかを聞いても譜面を見ても判然としない弾き方があって独学には難しかったのです。弦楽器の場合は同じ音を違う弦でも出せるため、運指と言いますが人によって違う弾き方をしたりするんです。

クラシックギターは演奏に性別は関係ないので現在は世界的にみても女性の演奏家が多くなっています。なので私も見る動画は女性のものが多くなります。同じような技量の演奏であれば毛むくじゃらのオッサンより美しい女性のほうが・・・。
しかし中には明らかに美人であることを意識した動画になっているものが少なくないんですね。どういうことかというと、無駄に綺麗な風景のなかで目立つドレスを着て風にロングヘア―がなびくショットがあったりして、つい「おい、音楽とは関係ないだろ」と突っ込みたくなります。
見たいのは左右の手元がメインなので演者の性別や年齢、ルックスなどは二の次のはずなのに、同じような技量の演者がいた場合顔が好みの人を選ぶ自分がいたりするんですねえ。はぁ・・・。これが容姿というものが持つ残酷さと言いますか演奏とは関係ない部分でプラスマイナスが生じるわけで。
そもそも私が好みとか言う時に明確な基準などなくて単に昔好きだった人に似てるとかいう理由で優先順位が上がったりしています。

別に美人が好きというわけでもないですし、そもそも美人って何?と問われても確たる答えはありません。ただ、有無を言わせずに美しいという人に会ったことはあります。 1978年の冬。スウェーデンのストックホルムでした。ある夜、住んでいた古いアパートでギターの練習をしているとドアにノックが。そんなに遅い時間ではなかったけど苦情かなとドアを開けると女の人が立っていて、私が謝ろうとするのを制して「弾いていたのはあなたですか?」と聞かれました。
「真上の部屋に住んでいて時々あなたの演奏を聞いています。今、友達と二人で飲んでいるんだけどちょっといっしょにどうですか。もちろんギターも聞きたいし」ってことでした。で、お邪魔した部屋にいたのがその女性でした。最初部屋に入って挨拶した時には一瞬で目を奪われました。目鼻立ちははっきりしていて整っていて肌は透明感があって髪は漆黒。美女というより中性的なミケランジェロの彫刻のようでした。ギリシャ人だそうです。呼びに来た女性もブロンドの美しいスウェーデン人でしたけど、この黒髪の女性のインパクトは45年経った今でも覚えているほど衝撃的でした。美しさは極めれば男も女もなくなるのですよ。

相変わらずダラダラと本の紹介とは程遠い文を書き散らかして申し訳ありません。最後に ものすごく遠まわしな言い方ですけど、例のニューヨークへ行ったお姉さんのことですが。みんなよく他人の家のことに土足で入り込むようなことを平気で言ってますよねえ。私はお姉さんがニューヨークを普通に私服(いつものスタイルではない)で歩いているニュースを見て「あ、普通の年相応の女性の雰囲気だなあ、お幸せに」と思いました。


モデルantiミリセント・ロバーツに出てくるパートリッジ・ファミリーの「悲しき初恋」
以下は再読後のもう少し冷静な作品紹介。

それぞれの話は独立していますが、登場人物はそれぞれの物語にあるうっすらとした共通の背景からちょっとづつ全体のなかの位置関係が明らかにされて、さながら曼陀羅の世界のような時間さえも飛び越えた大きな世界観が立ち現れます。

主題(テーマ)はもちろんキャッチコピーにあるようにルッキズムの問題がひとつ。そして時代を越えて展開される家族の物語。あるいは語彙を持たぬ子供の心理を大人の視点から読み解く新たな『児童深層心理小説』とでもいうべき手法。
文中には一語たりとも書かれてはいないのにはっきりとわかるあの人物等々。BBCで放送されて一部では問題(洒落ですまない)視されている芸能界という伏魔殿の光と闇(BBCの問題に言及しているわけではありません)。
SNS時代のマーケテイング的発信と誹謗中傷の地獄。忖度する者と忖度されるものの裏表。差別語の在り方に一石を投じ、いわゆるブランド志向の功罪にメスを入れ、封建的な家族像の持つ非人道的なミソジニーを蹴散らす……。
これらは他の姫野カオルコ作品に通底するヒメノ式と呼ばれる哲学です。長年の読者にはお馴染みのヒメノ式を楽しみながら、時には「哲学的諦観」に浸り、時には下腹部を「ひにょにひょ」?させて楽しめます。
ピンク系統の装丁や各物語のファンシーなタイトルからは想像もできない複雑な多面性を持った作品。

四つの物語は
---岸田文雄が総理大臣になった日に、『別冊ガーネット』を読みふけってしまった。--- で始まり
---私はガーネットを受け取った。---
で終わる。

私ごときが小説の技法などに言及するのはおこがましいかぎりですが、あまりのうまさに思わず叫びましたよ
「よっ、姫野屋!!」

読者はこのエンディングから古今東西の物語にはお馴染みの大団円に相応しいあのセリフを思い浮かべることでしょう。

「そうして、みなさん、それぞれ、それなりに暮らしていきましたとさ……」

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