『うわべの名画座』 発行 ホーム社 発売 集英社 2025年8月
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とても面白くていつもだったら一気読みしてしまうところを、3日かけてゆっくりと噛みしめるように読みました。情報の質量共に多くて自分の脳内で噛み砕くのに少し時間がかかったこともありますが、面白くて読み終えるのが勿体無いと思ったりしてました。 姫野さんもブログ等で言っていますが、いわゆる映画評的な内容とは少しベクトルが違っているので言及されている映画を見た事がなくても充分楽しめます。私はそこまで映画に詳しい訳ではないのですが、昔のある一時期はレンタルビデオ店にいりびたっていましたのでそこそこ観ている方です。それでも本書に出てくる映画は観ていない作品が多かったですね。ほとんどが姫野さんの分類で言う旧作(1989年ぐらいまで)の映画ですしいわゆるドンパチ系の映画は入っていませんから、映画に何かゲーム的要素を求める方にはあまり馴染みのないラインナップでしょうね。 そもそも姫野さんが映画に求めているものが、我々とは違います。それは背景! んっ? 登場人物でも物語でもなく背景。そう映画から人物や物語を引いて残る景色、背景(社会的背景という意味もあるが、この場合は実際に映っている背景が主)に現れる時代の風景(部屋や建物の意匠も含む)、そこに不可逆的な歴史や時間の経過を見ることこそが主眼なのです。とは言っても読者がそこにフォーカスする必要はありません。 副題「顔から見直す13章」とあるように、話しは顔から入って単なる好みの問題と思っていたものがいつの間にかコペルニクス的転回で時代の考証に至り、章が終わる頃には思いもよらぬ未知の着地点に放り投げられる(一本背負い)こと間違いなし。ヒメノ式エッセイの面目躍如です。
誰々はかっこいい(かわいい)から推しなんだ」などと貧弱な語彙を垂れ流している界隈などは一瞬で大外刈り一本。いや、ま、私自身も姫野さん推しですし姫野さんもミッシェル・ポルナレフ推し(「青春とは、」文春文庫)なんですけど。 さて、いつものごとく本書からジキルの極私的体験を語ろうと思いますが、最後の章「ソフトフォーカスでエロ映画を女性向けに作戦」を語りましょう。そうあの「エマニュエル夫人」です。1974年の1月に公開されて大ヒットしました。2番館3番館での上映を含めるとブームは1年ぐらい続いたようです。私は当時19歳。すっかりお馴染みになった独特な形の籐椅子に座るシルビア・クリステルの姿は嫌でも目に焼き付いていました。 ただし私が実際に映画を見たのは翌年1975年の夏。横浜から船で当時のソビエト連邦ナホトカ港まで3日。シベリア鉄道でハバロフスクまで一晩、そこから飛行機でモスクワに一泊そして再度鉄道でサンクト・ペテルブルグを経由してフィンランドのヘルシンキに着いたのは6日目。当時のソ連は西側との冷戦の真っ只中で私のような個人旅行は珍しくしかも自由に動くことはできなかったのでだいぶ緊張しましたね。 その反動かモスクワでストリチナヤウォッカを飲み過ぎて翌日ひどい下痢になってしまい、街の書店でトイレを借りたりしました。トイレットペーパーがなくて焦りましたが、どうやら横に積んである本を使えということで、ひたすら揉んで柔らかくして使用しましたが、なにせ下痢なもので・・・。あぁ、いかんポクポク・・・話を戻します。 ヘルシンキに到着してオリンピック選手村を利用したユースホステルに泊まって、市内の中心部に行くと、そう、あの見慣れた籐椅子が。誘蛾灯に引き寄せられる蛾みたいなもので、ふっふっふ。その時の私はもう人生初めてのノーカットエロ映画に興奮して・・・んっ・・・こ、これは・・・ポクポク・・・なんと始まって十分で寝そうになりました。そうです。退屈だったんです。完全にモデル体型のシルビア・クリステルにはイヤラシイ気持ちは1ミリも感じず、かと言ってストーリーもわけわからんし、そもそもフランス語にフィンランド語の字幕ですもの。 この映画は大ヒットして続編も作られましたし、当時JALパックだったかでフランスへノーカット版を見に行くツアーとかもあったらしいです。
いつものように「だからなんだ」って話しですが、本書を読み終えたばかりの私は無性に映画が見たくなってしまいました。アマゾンプライムで本書に登場した映画を見ようとしたのですが、なんと暑さでTVモニターが故障。テレビを置いている部屋はエアコンがなくて、ネットで仕様を調べたら耐用温度が40度でした。 実は79年の秋、私は放浪生活に切りをつけて帰国する前に一ヶ月ほどロンドンに滞在して、安い航空チケットを捜すかたわら毎日映画を見ていました。70年前後のアメリカンニューシネマや黒澤映画を特集する企画上映館がたくさんあって面白かったです。なにせ46年も前のことで沢山見たタイトルの記憶が曖昧なんですが、一本だけプレミアロードショーオープニングに迷い込んだことがあって、それがこの「エイリアン」でした。本当にたまたま並んで(普段は並ぶことはない)いたらロビーに精密で実物大のエイリアンがいて、なんの予備知識もなかった私は「な、なんの映画なの?」と不安になったりしました。今回あらためて見ると、エイリアンの全容は最後のシーンでぼやけたシルエットの全体像をちょっとだけ見せる、基本的にエイリアン(最終形態)がどんな姿なのかはっきり見せずに恐怖を高めるとゆう演出なのですが、ロンドンのプレミアは映画鑑賞前に全容ダダ漏れってどうなんでしょうね。 帰国してからエイリアンをデザインしたギーガーの世界観に魅かれて画集を買ったりして、当時は「エロスとタナトスが鬩ぎ合う黒い粘液のデスメタル」などと言って一人で悦に入っていたものです。今回久しぶりに見て全く失念していたこと(猫のジョーンズ)などもあって実は別の意味で面白く見られました。冒頭のシーンで宇宙船の中で当たり前のように喫煙しているのに時代の違いを感じて、同時にこの映画のフィクションとしてのスタンスがわかって少し興醒めしました。つまり科学的な考証よりスタイルとしてのエンタメ性を優先(まあ映画としては普通のことなんでしょうけど)されているんだなと。 そうすると様々な疑問が湧いてきました。例えばエイリアンそのものの食料(エネルギー供給源)は? 未知の星に行ってなんだかわからない物体(卵)を平気で突つくか? 金属を溶かす体液(酸)を持った生体? ロボットの動力は何? WIN95の15年前ではあるがHAL(2001年宇宙の旅)から10年経っているのにコンピュータの描写がほぼいっしょ? エイリアンを殺人鬼に変えると単なる密室ホラ=? いくらでも疑問点が溢れてきました。と言うのも私、今現在「プロジェクト・ヘイル・メアリー」を読んでいる最中で科学的考証と突飛な発想のゴッタ煮に感化されまくっております。
そして26年前にこの映画全体の中で最も記憶に残って好きなシーンは・・・今回も同じ所でした。それはリプリーが最後に潜んでいたエイリアンと対峙するシーン。 |
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