直木賞作家『姫野カオルコ』(姫野嘉兵衛)の応援サイト。ディープな読者も初めての方も大歓迎。

昭和の犬・幻冬舎文庫
(単行本刊行時の紹介は下にスクロール)2015年12月
直木賞受賞作の文庫版。読んでためになる姫野さん自身の特別解説付です。その中で芥川賞のイメージをパウル・クレーの「忘れっぽい天使」に、直木賞をジャン・フランソワ・ミレーの「晩鐘」に例えています。いわゆる抽象画と具象画ということですが、本書では各章の冒頭でその時代が抽象的に綴られていることで、印象がそちらに引っ張られているのかもしれないと書いています。

もともと姫野さんの小説は批評家の間では直木賞よりは芥川賞向きと言われていました。現在は芥川賞が主に新人作家の短編に直木賞は中堅作家の長編に与えられるのが普通なので、姫野さんを新人と捉えるのは無理があるということで直木賞に何度もノミネートされ、姫野さんが授賞式の壇上で選考委員に冗談めかして「これでみなさんには、好みでない姫野のノミネート作品を読む必要がなくなった」と言って笑いを取った一撃(私にはそう思えました)が象徴するように直木賞の受賞作家のなかで姫野さんは少し異質なのかもしれません。

2015年の現時点では、自伝的小説である最新刊の「謎の毒親」も発売されていて、本書の主人公である柏木イクの経験(特に親との関わりの部分)が、姫野さんの実体験をもとに具象画的に描かれていることがわかります。

ここでジキル式紹介の常でさっそく脱線します。ミレーの「晩鐘」は背景に小さく描かれた教会から聞こえる(アンジェラスの鐘)を聞いて祈りを捧げる敬虔な夫婦の姿で農民画家と呼ばれたミレーの代表作です。

この絵を見て不安を感じ死の匂いを嗅ぎ取ったのが、あのサルバトール・ダリでした。収穫したジャガイモは背後の荷車に積んであるようですが、夫婦の間に置かれた籠にも少し入っているようです。そして二人が祈りを捧げているのはアンジェラス(つまり大天使ミカエル)にではなく二人の間の地面に向けてのものではないかと言うのです。つまりダリは籠の下には幼い子供が埋葬されているのではないかと感じ、ルーブル美術館に「晩鐘」のX線検査を依頼したのです。

結果はなにか小さな棺ともとれる空洞のようなものが現れたというのですが・・・。だから何だというトリビア話ですいません。言いたかったのは本作の後に刊行された「近所の犬」と「謎の毒親」の二冊を読んだうえでこの「昭和の犬」を再読すると、また違った印象が立ち現れてくるかもしれないということ。

さらに脱線話は続きます。下にスクロールして単行本刊行時に書いた紹介をぜひ再読してみてください。ジキル宅の駐車場に現れた野良のキジトラはあれからすぐ姿を見せなくなってしまいました。階段下に置いた餌は時々なくなっていましたが、そもそも皿や餌が散らかっていたりして猫ではなくてカラスが食べたのだと思われます。たぶんキジトラもカラスに襲われたのではないかと思われて・・・残念でなりません。カラスにとっては弱った猫など餌以外のなにものでもないんですよ。

あれから一年ぐらいして父親が入院しました。軽い脳血栓と思われ、病室のベッドでは何かを捕まえようとしていたり、誰もいない所に話しかけようとしたりして幻覚幻聴があるようでした。耳が聞こえないので筆談でコミュニケーションをとっていましたが、(刀を持ってこい。それで自殺する)などと書くこともありました。92歳の父は多分寿命を全うしようとしているのでしょう。10年前に父が事故にあって入院した時から、私も妹もいつその日が訪れてもおかしくないという覚悟はしていました。病院は実家の近くなので私は妹と車で見舞いに行き、父親をただ見て時間を過ごしてぐったりと疲れて帰ってくることが続きました。

ちょうどその頃、駐車場に物置替わりに置かれている大きなソファの背もたれの上に茶トラの猫が来るようになりました。来るというより居るという感じで朝からじっとしています。私と妹が自転車で会社に出かける7時頃にはもうソファに座っています。茶トラはじっと動かずに私と妹を見ています。それから毎日帰ってくると、同じ場所に茶トラがいました。しかし私や妹が近づくとゆっくりとソファから降りて裏側に潜り込んでしまい、どこかに行ってしまうのです。ある程度の距離で見ているぶんには茶トラはただひたすらじっとしていました。

多分、病気なのでしょう。動作が緩慢で餌を置いても食べたりはしませんでした。私には命が尽きようとしている父の姿と茶トラの姿が重なって見えていました。しかしどこかで餌をもらっているのか不思議なことに3週間たってもガリガリにやせることもなく、ただひたすらじっとソファの背にうずくまっているだけでした。私と妹はそんな猫をしばらく眺めることで、少し疲れた気持ちが癒されるような気がして、ある程度の距離から茶トラを眺める毎日。

父は少し脳の血流が戻った?のか、幻覚幻聴はなくなったものの今度はひたすら「家に帰りたい」と言い、筆談のノートはすぐ同じ文章で埋まってしまうようになりました。医者は高齢を理由に特に何かの治療をしようとはしません。で、父は暴れるわけではないのですが食事や薬を飲むのを拒否したりし始めて、結局医者が根負けした感じで退院することになりました。幸か不幸か父は寝たきりではなくてゆっくりでも自力でトイレに行けるのです。

父が退院するその朝。妹が「茶トラが急に寄ってきたので撫でたら嬉しそうだった」と。約一ヵ月ほぼ毎日朝晩見ていてそんなそぶりはまったくなかったのに。その夜実家に戻った父の様子を見てから遅く帰宅した私は茶トラの姿を探しました。するとどこからともなくやってきた茶トラは私の足元でニャーと鳴いて足元にじゃれついたのです。撫でると嬉しそうに喉をゴロゴロと鳴らすではありませんか。

以前書いたように私は前の猫たちの死が忘れられず新たに猫を飼うつもりはなかったのです。この茶トラは病気かもしれないのでまた以前のように悲しい思いをするかもしれません。以前見たことがある木工所の猫(居ついていたと思われる)だとすると、3〜4歳以上にはなります。性別はメス。しばらく様子を見る感じで私がいる時は部屋に入れて、餌をあげることにしました。ある夜に駐車場から聞こえた猫の争いの気配に心配になって茶トラを探しに出たのですが、なかなか見つからなくて心配のあまり眠れなくなってしまい、やっと決心して完全に部屋飼いをすることにしました。さっそく猫用トイレを用意して翌日からはずっと部屋で飼っています。当初はまだ病気の名残か、私の膝に乗って甘えるときもぴょんと飛び乗ることはできなくて、よっこらしょという感じでしたが、今ではすっかり元気で部屋の中を走りまわっています。

それから一年、93歳になった父がまた病院に救急搬送されました。やはり軽い脳血栓であろうと思われましたが、今回は強い痙攣を伴っていたとのことで、いよいよ私はその時が来たと覚悟を決めて病院へ向かいました。さすがに今回は脳へのダメージがあったようで、見舞いに行った私を息子とは認識できていないようでした。ところが、入院3日目には起き上がって自分でご飯を食べて、メモに(タクシー代は払うから家に帰りたい)と書き、結局1週間で退院してしまいました。

まったくターミネーターか。

そうこうしているうちに老老介護をしている88歳の母に認知症の影(ここのBGMは例のジョーズのやつね)がひたひたと忍び寄っており、還暦を迎えたジキルの老後は風雲急を告げるのであります。母の認知症はまだぎりぎり普通の生活を営める程度ですんでいますが、周りの者にとってはじわじわ効く毒のような効果を持っているようで、私も妹も実家に行くと1時間ぐらいしか平常心が持ちません。それにしてもここにきて「風のささやき」と「昭和の犬」と「謎の毒親」がいっしょになって私の生活に入り込んできました。

それでも帰れば茶トラがドアの前で待っていてくれて、猫の温もりは私の硬く閉じてしまいがちな気持ちをほぐしてくれています。



昭和の犬・幻冬舎
2013年9月
姫野さんがブログなどで書いているように、読者が誰かに感情移入して物語を読みすすめて疑似体験によってカタルシスを得る、という作品ではありません。そもそもドライな筆致で淡々と描写される日常と、あまりにも予想外の謎や違和感や恐怖(それらは全て主人公イクの両親が発信源)が同居している様はどこか不条理なホラー映画のようでもあります。

各章のタイトルが懐かしいテレビドラマになっていて私の年代だとほとんど知っていますね。こうした外国のドラマでは他に「奥様は魔女」「タイムトンネル」「プリズナーNo6」そして「0011ナポレオンソロ」「スパイ大作戦」などが好きでした。

こうして主人公イクの様々な年代ごとに関わりのあった犬や猫の話が続きます。静かに淡々と読み終えた私は最後のページをめくる時・・・自分でも驚いたのですが・・・不覚にも涙して、そしてしばらく考え込んでしまいました。この涙はいったい何に対する涙なのか。

例によってここからジキルの極私的な話になりますが、しばらくお付き合いください。私が子供の頃には家にコロという茶トラの猫がいました。当時は猫のえさと言えばそれこそ人間の残り物で、ご飯に残った味噌汁をかけたものがメインでした。私にコロの子猫の時分の記憶がないので、実際は隣のお寺の境内などにいた野良猫だったのかも知れません。そもそも昔の家は土間はあるし屋内と屋外の区別も曖昧で猫の出入りも自由だったのです。縁側などはずっと開けっぱなしでしたもの。

私が小学校5年ぐらいの時1965年ぐらいだったと思いますが、もうだいぶ年を取ってヨボヨボだったコロは夕方私がTVを見ていた(シャボン玉ホリデーだったような記憶が)コタツに入ってきて、そのまま私の横で眠るように死んでいました。
あまりコロと遊んだりした記憶はないのに、その時のことは忘れられません。私がいつものようになでようと伸ばした手に感じたのは、なんとも言いがたい冷たくて硬い初めて経験する感触でした。

しばらくしてやはり隣のお寺境内で生まれたらしい白ネコがよく家に出入りするようになりましたが、ある日パタッと姿を見せなくなって町内中を捜して歩いたのですが結局見つかりませんでした。

2001年の冬。前年に私が引っ越してきた元木工所の駐車場屋根裏で生まれた三匹の猫。いつのまにか親猫はいなくなってしまい、当然のごとく私が飼い始めたのですが、長毛のクロが僅か半年で病死。茶トラのチャーが一年後に同じく病死。
最後に残った三毛のショーンも2005年に同じ症状が現れて亡くなりました。いわゆる猫エイズでした。最初のクロの時に血液検査をしてわかってはいたのですが、ただ死にゆく猫たちを見ている日々は正直きつかったです。

それからは時々猫たちの姿がフラッシュバックし(その光景は楽しく遊ぶ姿などではなく死にゆく姿です)ひたすら気持ちが沈むことがあって、これはいわゆるペットロス症候群なのだろうと思っていました。
知り合いはまた猫を飼えば良いんじゃない?と言うのですが、私はまた猫たちの死に直面する勇気がありません。
そんな私ですが、仕事の途中で出会う犬や猫にずいぶん癒されてきました。

もちろん私の姿が見えてから消えるまでずっと吠え続ける犬もいますし、時にはポストに繋がれた犬が吼えるために配達できないこともありました。あっ、私まだ郵便配達やっています。担当する区域には何匹かの犬友達がいて、飼い主の許しを得てよくなでさせてもらいます。そんな僅か数分のことが私の気持ちを安らかにさせてくれ、その日一日の活力まで与えてくれます。
不思議なことだなといつも思います。猫はなかなか撫でる機会はないのですが、たまに猫を抱いて出てくるお宅があって、そういう時はすこし触らせてもらったりします。

実は最近朝の通勤ルートを変えました。首輪をした飼い猫が2匹いる家があって、たまに外にいる猫たちに出会えるのです。少し遠回りにはなりますが、5分も早く出ればすむことなので。その家はちょっとした坂を上った遊歩道沿いにあって、私はいつも坂を登りながら猫の姿を探します。
白い猫が見えると心の中でクイズに正解した時のような「ピンポーン」の音が鳴ります。自転車を遊歩道に止めて白猫を撫でているといつもどこからかもう一匹の三毛猫がやってきます。人懐こい猫たちは通学の子供たちにも人気があって、私が撫でていると子供たちが立ち止まります。そんな時は子供たちを呼んで「ここ撫でられると好きみたいよ」と、場所を譲ります。
ええ、ちょっと名残惜しいのですが無理して大人の対応をします。はい。

ひと月前ぐらいのこと。時々家の周りで猫の泣き声が聞こえるようになりました。近所の猫事情は奥の貸家に茶トラが一匹。道と畑を隔てた木工所にも茶トラが一匹。昔は他にも2匹ぐらいの野良猫を見かけたのですが、現在はこれだけのはずです。しかし時おり聞こえる泣き声からするともう一匹いるようで、探してみたら小さいキジトラがいました。2階の窓から見える倉庫の前で木工所の茶トラと遊んでいるようです。それである日の夕方、自宅駐車場の隅に猫用のドライフードと水を置いてみました。

翌朝、えさはきれいになくなっていました。実は自宅駐車場では茶トラしか見たことがありませんで、私としては新人猫のキジトラにあげたつもりなんですけど、どの猫が食べたのかわかりませんね。
よく野良猫にえさを与えるなと言われたりしますが、人家の密集した都会ならともかく私のところみたいな田舎では野良猫が人に及ぼす迷惑は何かと考えてもちっとも思い浮かびません。

姿の見えない猫にえさをやり続けて1週間。妹は茶トラ以外見かけたことがないので、えさを食べているのは多分木工所の茶トラじゃないかと言います。私もキジトラを見たのは2階の窓から一度だけでしたし、それ以来鳴き声も聞いていませんでした。
ある日の夕方、帰宅して空の皿にえさを補給して2階へ階段を上がって行く時でした。ちなみに駐車場というのは元々作業所だった所で2階まで屋根で覆われた大きな空間で、その中によくあるアパートの外階段のようなものがあり、自室にはその階段を登って行きます。

気配を感じて階段の途中で振り向いた私と、ちょうどえさを食べようとしたキジトラの目が合いました。キジトラは完全に固まってピクリとも動きません。私も「ああ、やっぱりキジトラだったんだ」と思いながらしばし固まっていました。その距離5m。

私の平成の猫事情はそれだけです。それだけかい!と、突っ込まれそうですが、劇的なことは何もありません。キジトラとの距離もあまり近づきません。やはり人に慣れていない野良の警戒心は強いものがあります。

「昭和の犬」の読了と共に私が感じたなんとも言えぬ思いは、実はこうした私の猫事情から映し出された私自身の人生にたいするとても個人的な思いであって、じわっと溢れた涙は悲しいからでも嬉しいからでもなく、過ぎた時間に対する慈しみの感情が溢れさせたものかなと理解しました。

「昭和の犬」でどうしても触れなくてはならないのが、特異な毒親のことです。私の場合はプロフィールにもあるように、若いときにかなり激しく親とぶつかったりしましたが、両親も私も年をとって現在はたまに会ってそれなりにうまくやっています。事故で死にかけた父親は耳はほとんど聞こえませんが90歳。自分で歩いてゴミ出しをします。しかし事故の影響なのか飼っていた鯉や金魚にたいする興味をなくしてしまい、体力的な問題もあって庭の池掃除が長年疎かになっていました。そのせいか次々に鯉が死んでしまい、ある日私が実家に行くと母親が庭の隅に穴を掘ってくれというのです。見ると50センチもある錦鯉が池に浮いていました。最後の一匹だったそうです。
鯉を埋葬して線香を焚いて拝みながら、母は「生き物はいかん」と言いました。実はこの言葉は何度か聞いたことがあっていつも違和感を感じていました。妹も同じように思っていたようで「いきものは、い・か・ん」ってどういうことだろうと・・・。

実家には前述のコロとシロというネコ。もっと小さいころにはニワトリとウサギを飼っていたような記憶があります。母親の実家である農家ではヤギを飼っていましたし、あとは鯉と金魚。これが実家と母親に関係する「いきもの」のはずですが、その何がいかんのかさっぱりわかりません。
鯉を埋葬したあと、お茶を飲みながらの雑談で母は「わたしが池の掃除をしなかったから、水を取り替えなかったから鯉が死んだ。私のせいだ」と言っていましたが、そのあとにボソッと小さな声で「清々した」と言ったのです。

母親が奥底にしまいこんでいたの何か深い闇を垣間見た気がして、ちょっと気が滅入った覚えがあります。まあ私も母の心の闇がどうのこうのと偉そうなことは言えません。だって埋葬する時に思ったのは「こんなに大きい錦鯉なら売れば高かったろうに」と、いう身もふたもないことでした。ああ、なさけない。

相変わらず本の紹介には程遠いものになって、しかも今回はちょっと長文ですみません。

追加(9月22日)
上の文をアップしてから数日。母親が「いきものは、い・か・ん」と言うことの理由は何も家庭の中で起こったことが原因とは限らないことに気がつきました。母親の子供のころや結婚するまでの間、そして長年勤めていた小学校での出来事に起因するのかも知れません。

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