直木賞作家『姫野カオルコ』(姫野嘉兵衛)の応援サイト。ディープな読者も初めての方も大歓迎。

リアル・シンデレラ・光文社文庫
2012年6月
「リアル・シンデレラ」の文庫化であらためて自問したことがあります。

「初老のおやじである自分の人生はどうだったの?」と、いまさらながら自問してみれば・・・。次々とあふれ出る後悔の念に溺れそうになりながらも、「う〜ん。まあこんなもんじゃないでしょうかね。うん、不幸ではないです」という答えになりそうです。

単行本を読んだ時と同じ答えなんですが、この間には東日本大震災という未曾有の出来事があってついこないだはよくサイクリングに行く場所で大きな竜巻が起こったりしました。そういう自然災害にあってしまった人の不幸を目の当たりにすると、自分に降りかかる日常のこまったことやいやなことなどは何ほどのこともありません。

3.11は人々に(あの災害にみまわれなかった自分はそれだけでラッキーだ)という思いを抱かせ、被災者の方々に比べれば自分のちょっとした問題や苦労などで不幸だなどと言っている場合ではないと思う人が多くなったことでしょう。そして、たまたま東北だったけど、首都直下地震だって東南海大地震だって富士山大噴火だっていつでも起こりうるのが現実と再認識したとき「じゃあ自分にとって幸せって何だろう?」という単純な問いが3.11以前とは違う意味を持つことに気がついた人が多いのではないでしょうか。

以前管直人が「最小不幸社会」を目指すと言って物議を醸し出したことを思い出しました。政治家が「不幸」という言葉を使うのが新鮮でもあり違和感もあったりしました。一般的には評判の悪い言説だったようですが、逆に「最大多数の最大幸福」みたいなことを言われてもしらける思いがあります。たまたま管直人が首相のときに近代日本の歴史上最大の自然災害と人災(原発事故)が起こってしまったわけで、管直人の対応や人間の器を非難しても始まりません。他の誰でもたいしたことは出来なかったでしょう。消費税増税しか言わない現首相もなんだかだし、現代日本の政治家に人間の器などというものを求めるのはトルーマン・カポーティにギャグを書かせるようなもので(どんなだ)そもそも無理というもの。(ちなみに私自身は必ずしも増税反対ではないんですが、増税するんだったら議員定数を大幅削減して天下りを廃止して、食料品は税率据え置きか減税、その他いわゆる生活必需品や公共料金も据え置き、そのかわり例えばゴルフ関連には35%ぐらいの税金をかけたらよろしい。車やその他贅沢品にはもちろん高率の税を)

え〜っと何だか話が脱線してしまいました。3.11の後にいろいろなことを考えさせられたし、実際に節電という部分では以前とまったく感覚が違ってしまいました。そもそも東京電力の電気を使うのがいやになりました。今のところ選択枝はないのでせめて無駄に使わずに生活しようとやってみたら、去年は平均で25%ぐらい節電できました。どうだ、東電!・・・って何がどうだかわかりませんが。で、今年度から(4月から)はさすがにこれ以上は難しいと思ったのですが、それでも前年比−5%。どうだ、東電!!

すまんすまん、なんだか興奮してしまいました。ようするに自分でも驚いたのは3.11以前はそれだけ無自覚に無駄な電気を使っていたのだということでした。で、ここでやっと「リアル・シンデレラ」の主人公(倉島泉)の話になります。泉ちゃんは3.11以前と以後でそれほど考え方も生活も変わらないんじゃないかと思われるのですが、どうでしょうか?そもそも節約生活を苦と思わない泉ちゃんですから、3.11に関わらず必要最低限の電気しか消費していませんものね。ここで大事なのは泉ちゃんは質素な生活を誰に要請されたわけでもなく、ごく自然にあたりまえのこととして生きているということです。「どうだ、東電!フン」などと鼻息荒くなったりしている私の器が小さく思えてなりません。

まったくまとまらなくなったので、本書のイメージソングである「ひとりぼっちのメリー」を紹介します。



リアル・シンデレラ・光文社
2010年3月
3月20日(金)ネット予約していた『リアル・シンデレラ』がメール便で到着。内容に関する予備知識は姫野さんの「とっても地味で静かな話」というコメントとアート・ガーファンクルの「ひとりぼっちのメリー」がテーマソングという情報のみで読み始めました。

そしてドキュメントフィクションという独特の手法でどっぷりと湖のほとりの物語に浸って、最後は夢か現(うつつ)かドキュメンタリーかメルへンかという幻惑の展開にもかかわらず胸に込み上げるものがあって、読み終えてもずっと不思議な余韻が残りました。

この作品が読者に問うことの一つは「幸せって何?」というシンプルなもの。多分人は様々な答えを言うのでしょうけど、正解はありませんよね。結局幸せっていうのは人それぞれってことになりそうで・・・。

例によって作品の説明や紹介をしないままジキルの極私的話になります。もし私が
「いま、あなたは幸せですか?それとも不幸ですか?」
と聞かれたら、こう答えます。

「自分が幸せか不幸かはわかりません。例えば嫌なことや困ったことはたくさんありますが、だからと言って不幸とは思っていません。でも、時々日常の何でもないことで幸せを感じることがあって、それが若い頃よりも多くなったような気がします」

この「日常の何でもないこと」の内容が年をとることでずいぶん変わってきたみたいです。若い頃の私にとって日常とはイコール退屈であったわけで、何かことが起こったりするには非日常が必要だと思っていた私の人生は、まあ他人から見れば若干ドラマティックだったかも知れません。

ところが、現在の生活は若い頃にあれほど忌み嫌っていた地味で平凡なルーティンの日々。 しかもそれが全然いやではありませんし退屈でもありません。歳をとって退屈や孤独との付き合い方を学んだこともありますが、若い頃には気づかなかった些細なことが幸せの種になることを知りました。

例えば仕事(郵便配達)の途中で会う犬やネコ。もともとネコ好きで犬はちょっと苦手だったのですが、最近はお気に入りの犬もできてそのお宅へ配達するのが楽しみだったりします。すっかり向こうも覚えてくれて、近づくと尻尾をふって待っていてくれたりするとたまりません。道で会った見知らぬ人と「こんにちは」と挨拶しあうそれだけのことも嬉しいし、配達先で「寒いなかごくろうさま。ありがとう」と言われるともうそれだけで一日の仕事をやる力がわきます。趣味のサイクリングに出れば季節折々の風景の変化を肌で感じることに無上の喜びを感じ、たまには同居している妹とショッピングに出かけ、ちょっとしたランチを食べるだけでも十分な喜びを感じるようになりました。昔はただうるさいなあぐらいにしか思っていなかったのに、小学生たちがぞろぞろと下校するのを眺めているだけでも楽しかったりします。

それだけ。

私は非正規雇用という不安定な立場ですが、少ないながらも定収入があって、特に何か買いたいもの欲しいものもないので欲望が満たされない苦しさとは無縁ですし、性欲自体はまだ多少残っているもののずいぶん磨り減ってしまい悶々とするほどではありません。いわゆる名誉欲とか権力欲みたいなものは元々あまりないし・・・。ほんと最近すごく楽になりました。これから春本番で川の土手などは一面菜の花で黄色い絨毯のようになるし、お気に入りのサイクリングコースは桜のトンネルのようになります。私はそこを好きな自転車でのんびりと走るだけで十分幸せなんです。これはもう年をとることの恵沢としか言いようがありません。

いつものように「それがどうした」っちゅうジキルの極私的話ですが、本書が問う「幸せって何?」に対する私なりの答えではあります。
本書は ドキュメンタリー作家が本人以外の人々に話を聞くという構成ですが、周りの人々の人間関係や性格や生活のディティールが絡まりあって、中心となる人物像が浮かび上がってくるという手法は前作の「もう私のことはわからないのだけれど」などでもその一端が使われていますし、「桃」などもそういう手法のバリエーションと言えなくもないですけど、これがまたうまいんですよねえ。周りの人々の俗物性とかエゴとか誤解などの積み重ねが物語のリアリティを高めつつ、逆に泉ちゃんの特異性が浮き彫りになることで今度は物語のファンタジーというかおとぎ話としてのクオリティーが高くなってきます。

それにしてもプリティーウーマン好きの人からは 「え〜、泉ちゃんってわかんな〜い。だって不気味じゃねー」 とか言われそうですね。

ところで「リアル・シンデレラ」の泉ちゃんは「受難」のフランチェス子に輪廻転生して今度は性の喜びを知ったということにしませんか?

作品紹介目次へ
ページのトップへ戻る