直木賞作家『姫野カオルコ』(姫野嘉兵衛)の応援サイト。ディープな読者も初めての方も大歓迎。

彼女は頭が悪いから・文藝春秋社
2018年7月
この物語は実際にあった事件から着想を得たフィクションです。

この事件を知った時に沸いた何とも言えぬ「いやーな気持ち」は今でも覚えていますが、いわゆるニュースの原稿からは当事者たちの心情が伝わってきません。 そこでいわゆる心理小説として被害者・加害者・周辺の関係者の心情を描写したのがこの物語(フィクション)です。

ですからストーリーは登場人物それぞれの心理を描写しつつ淡々と事件へ向かって進んで行きます。読み手にはそれぞれの考えていることが伝わってきますが、面白いというか不思議なことに登場人物同士の間では相互理解というものがあまり在りません。それはもう不条理と言ってもよいくらいです。

SNSの時代においては相互理解などというめんどくさいものは疎まれて、ひたすら同じ時間の共有という幻想のみが主な関係性として存在するかのようです。姫野作品の主人公はどちらかと言うと過剰なまでに相手の気持ちを酌んでしまい、結果として相手に誤解されるというパターンが多く、今回の主人公もそういう存在として描かれています。象徴的なのが主人公はいつも短いメールやラインの文言でさえあれこれ逡巡するところですね。

対する加害者側はSNSを単なる手段としてうまく利用するだけで、みごとなまでに他者の気持ちなどいっさい考慮しない存在として描かれています。ここで言う他者というのは自分に利するものがないと彼らが判断した者たちのことです。自分を利する最適解を導き出す能力が高いのですね。

しかし東大卒の優秀であろう官僚や政治家が平気で嘘をついたり失言する場面には事欠きませんし、東大そのものの世界的な査定が下落(確か23位)していてアジアでトップだったのは昔の話だそうです。それが結局一連のモリカケ問題などで明らかになったように官僚としての矜持よりも権力者に忖度して自己保身の為には嘘も平気でつくという惨状に繋がっているのかも知れません。

それでも偏差値による序列は人を選別し、その序列のトップに位置する東大ブランドの威光が存在するのは事実ですから東大生は意図的ではなくともその恩恵に与っているのは事実であり、本書が物議を醸すであろうポイントがこの「東大ブランドに対する強烈なアンチテーゼ」です。身近に東大卒の人間がいない私のようとな庶民にはちょっと判りずらいところがあって、東大卒の多い出版業界で反発をうけないのかなどと変な心配をしてしまいます。

それにしても帯の惹句にある「非さわやか100%青春小説」というのが、姫野さんらしいなあと感慨深いものがあります。私にとって青春というものはひたすら辛く恥ずかしく、思い出したくもないたくさんの失敗と挫折の日々でした。なので、ちまたに溢れる青春賛歌の物語にはぴくりとも琴線を刺激されませんからねえ。

ところでこのサークルという名を借りた犯罪組織のようなものが、東大に限らずたくさん存在している(他大学発の似たようなニュース有)のが実態なのだそうで・・・。実はここが私には一番理解困難な所でした。もうひとつ理解できないのが被害者に対するネット上の誹謗中傷。ネットというものの存在そのものが、人権保護と相反する匿名の暴力装置であることの証左かとは思っているのですが、なんともやりきれないものがあります。

ここで例によってわき道にそれます。本書に描かれているような学生生活、特にサークル活動というものが私にはよくわからなくて。なにせその年頃の私はヨーロッパを放浪しながら、その日の食べ物を買う金もなく寝る所もないようなギリギリの生活をしていたものですから、そもそも気楽な学生生活というものの経験がありません。自分で選んでドロップアウトしたので、文句を言う筋合いではないのですが、私だってモラトリアムの楽しいキャンパスライフを送ってみたかったぞ。・・・と、急に言葉乱れるジキルであります。

彼女は頭が悪いから・文藝春秋社
2018年7月
紹介は実は発売日の夜に書いたもので、ネットの反応などはもちろんまだありませんでした。で、発売から3週間ぐらい経ってぽつぽつ上がっている感想を読むと、

・淡々とした丁寧な人物描写が積み重なって後の不幸な瞬間に収斂していく物語構成は 小説として一気読みさせる力がある。

・結末というか起きる事件のことはわかっているのにその不幸な出来事に向かって冷酷に刻まれていく時間の濃密さに圧倒される。

・あ゛ぁー!う゛ぅぅー!ぐぅぅ… と、どうしようもなく変な声が何度も出そうになるほど姫野カオルコ『彼女は頭が悪いから』(文藝春秋)が凄かった!何が凄いって「うへぇ」と思うのに、「そういうもんだよな」とも思いそうになること。うわぁぁ!ですよ。姫野さんゴイスー!(藤田香織さんのツィッターより)

・『この世は無理解の地獄である』 小説の、文章と描写と構成の力、それは論文や論評のそれとは違う、そういうものでは取り零(こぼ)してしまうものが文章の中へ織り込まれ、更に胸の奥へ迫る格別な魔法がある。小説だけの持つマジックが。それが正にここにある。(初老男性(55)インテリ)←姫野ファンにはお馴染みのアンドレさん

・半休を捧げてしまった(悔いなし)。

彼女は頭が悪いから・文藝春秋社
駒場900番教室の三島由紀夫

『美と共同体と東大闘争』(三島由紀夫VS東大全共闘)という本が角川文庫からでています。

これは1969年5月13日、東京大学教養学部で行われた三島由紀夫と全共闘の討論会のドキュメントなんですが、その中に。興味深い記述がいくつかあります。

こういっては何ですが、全共闘側の意見というか論は、ぐだぐだと観念論を弄んでいて『レンタル・不倫』の霞じゃないけれど、途中で何度も「ようするに何なんだ」と言いたくなるような言説がほとんどです。その後の両者の軌跡(三島はそれこそ言行一致を全うし、全共闘はもちろんドロップアウト組もいたものの結果的に社会の権力中枢に取り込まれていった)を知るだけに、議論が噛み合ううんぬんよりも言葉の重さが違います。

 その中で三島は

 「そしてその政治的思想においては私と諸君とは正反対だということになっている。まさに正反対でありましょうが、ただ私は今までどうしても日本の知識人というものが、思想というものに力があって、知識というものに力があって、それだけで人間の上に君臨しているという形が嫌いで嫌いでたまらなかった。具体的に例をあげればいろいろな立派な先生方がいる……。そういう先生方の顔を見るのが私はいやでたまらなかった。これは自分に知識や思想がないせいかもしれないが、とにかく東大という学校全体に私はいつもそういうにおいを嗅ぎつけていたから、全学連の諸君がやったことも、全部は肯定しないけれども、ある日本の大正教養主義からきた知識人の自惚れというものの鼻を叩き割ったという功績は絶対に認めます」14P〜15P

と、東大に漂うエリート意識への違和感を語っています。これは姫野さんの『彼女は頭が悪いから』に対する東大内部からの反発から図らずも見えてきた東大に今も在る差別意識を半世紀前に指摘したものでしょう。

ここでどうしても避けて通れないのが、ちょうど一年前に東大で行われたブックトークの事件です。これはあえて事件と言いますが『彼女は頭が悪いから』をめぐる議論の中でファクトチェックと言いながら、どうでも良いことに時間をとったばかりでなく、そもそもメインゲストに対するリスペクトのかけらもない態度に終始した東大教授の事件。

これに関しては以下にコピペした2つの記事でだいたいわかると思います。私自身はブックトークに参加していないのですが、漏れ聞いた話ではこれでも控室の状況よりましだったのだそうです。姫野さんは実際に具合が悪くなったわけですし、これは完全に言葉の暴力事件と言って良いと思われます。


元記事のサイトはこちら

東大で開催された、姫野カオルコ『彼女は頭が悪いから』ブックトークに参加しました。正直、あまりにもモヤモヤする展開で、まるでこの空間自体が「彼女は頭が悪いから」のテーマを再現しているようでした。

今回のブックトークでは、2016年に起きた東大生による強制わいせつ事件に着想を得た小説『彼女は頭が悪いから』の内容から、以下のような内容を話す場だと告知されていたので足を運びました。(以下、告知文章より引用)

・性の尊厳、セクシュアル・コンセントとは?(性暴力事件の再発防止のために何が必要か)

・「学歴社会」と性差別について

・「東大」というブランドとの付き合い方、向き合い方

感想としては、もっと上記の内容に沿った話をしてほしかったです。イベントを企画された林香里教授が開会の挨拶で、

「東大にとって、ジェンダーや性暴力の話題に関して外の空気に触れることは大事。どうしてこういうことが起こるのか? 一部のモンスターが起こすのか? 東大への社会からの過剰な期待や眼差し、そこから生まれるプライドが関係しているのでは? といったことを、この場で考えたい」とおっしゃっており、

司会の小島慶子さんもトークの冒頭でイベントの趣旨として、

「2016年に起きた事件には『東京大学』という記号が深く関与しているのではないか。性暴力を行使する加害者の側の意識、例えば『自分は力がある(お金がある、男性である、高学歴であるなど)のだから、こうすることが咎められない立場なのだ』と考えることがある」

また、「東大はこの社会のエリートであり、勝ち組である、という記号化された学校名であって、今回の性暴力事件の背景の様々な要素のなかのひとつとして注目された。なぜ東大ということがこれだけ記号化されるのか、社会は東大と性暴力事件というものをどう消費したのか、なぜ被害者の女性が叩かれたのかを明らかにしていきたい」

ということを話されていて期待していましたが、まず、登壇者のひとりである東大でジェンダー論を教えられている教授がはじめからお怒りの様子で(おそらく姫野さんや姫野さんの作品に書かれていることに対して)、姫野さんも最初に「控室で挨拶しても怒ってはって......」と話されるくらいでした。会場にもそのピリピリした雰囲気が伝わってきました。

そして話を振られて最初におっしゃったのが、「授業で学生に本を読んでもらって感想を言ってもらったので、それを紹介します」という以下の内容。

「この小説は具体的な事件に入る前に、被害者加害者の描写が続くが、東大生の描写にリアリティを持って読めなかった。今の時代はラブレターを書かないし、東大の女子は1割ではなく2割だし、三鷹寮は広くない」

「また、加害者として描かれている東大生に挫折感や屈折している感じがないのに違和感を感じる。実際の東大生は、東大入学時に高揚感があっても、入ってすぐにテストなどがあって普通はついていけなくて苦労する。女子学生からは『集団としての東大を不当に貶める目的の小説にしか見えなかった』という感想があった」

まとめると、「小説中の東大や東大生の描写が事実と違う」「リアリティがなさすぎて読めなかった」「東大生も苦労をしているし、挫折を経験している」ことを学生たちは感想で述べていたという話でした。

その後のトークでは「この小説に出てくる東大生が、挫折をしている『屈折の醜さ』が表現されないのが、読んでいて違和感を感じる部分だから、挫折をしているという設定があればよかった」という指摘が教授からありました。

それに対して、文藝春秋のノンフィクション出版部担当局次長である島田真さんが以下のコメントをされていました。

「小説とリアリティの問題が指摘されているが、小説家の人はひとつの身体しかなく、その業界や世界の空気すべてを知り、作り上げるのは難しい。文学小説は、自分の状況に合わせて、想像力を働かせて読むもの。もし私の出身大学が舞台で小説になったら、『この詳細部分が違う』と読むのではなく、想像力を使って自分事として小説を読む。この小説にリアリティを感じながら読むには、挫折という要素が必要だという話だけど、これは挫折した東大生と、主体性のない女の子の恋愛小説ではないので、『挫折』という要素はいらなかったと思う」

ちなみに、姫野さんはこの本を東大の方向けではなく、一般書籍として出したとトークの冒頭で述べられました。書籍が商品として売られる以上、一般の人が読んでストーリーを追えるようにする工夫が必要だと考えて書いたそう。

質疑応答で話された東大の先生(お名前をメモし忘れてしまいました)からは以下のコメントが。

「小説を正しい、正しくないという基準で読むのは違うと思うので、この本を読んでそういう感想を持った人は、小説をもっと読んだほうが良い。もっと大きな真実が見えるはず。2016年の事件で5人の東大生が、集団レイプで逮捕されたことは紛れもない事実で、このことは正しい。この本は、『なぜこういうことが起きたのか?』を考えるための色んなヒントを与えてくれる」

また、教員という立場からの意見としてという前置きをした上で、最後に以下を述べられました。

「加害者は在学生3万人中の、5人だけだったからいいわけではない。絶対にひとりの加害者も出さないことを学生と教職員に考えさせてくれる小説だと思って読んだ。これは、日本全体で考えた時も同じ。そして私は教員として、本の最後に出てくる、被害者である美咲の教員のような存在であるかを問いたい。私たち教員は、『自分はそういう教員になれているのか?そのためにできることは?』というのを話し合うべき」

トークの中で私が特に刺さったのは、司会の小島慶子さんによる以下の指摘。

「大事な話をしている途中で、『今この数字が違ったよね、そんな馬鹿な人の話は聞けないね』と人の口を封じたり、正しくないから教えてあげるよ、というスタンスになったり、人間をランク付けする眼差しになったり、という状況にさらされることがある」

最後に紹介したいのは、イベントを企画された東大の林香里教授の言葉。前半でやり取りされた「世間は東大ブランドのことばかり言ってくるけど、実際に入ったら大変で、東大生にも挫折はある。東大生の挫折と他の人の挫折は違うのか?」という話題に対する答えが秀逸で、論点がずらされていた状況を何度も戻そうとされている意志が伝わってきました。

「東大生の挫折と、他の人の挫折は同じかという議論には意味がない。考えるべきは、『加害者が誰か』ということ。東大という記号から逃れられないのであれば、誰がその記号を押し付けて、利用して、得しているのかを考えることが重要。それは、すごくマスキュリンな東大だと思うし、日本社会にそれは地続きにつながっている。だからそこをもっと議論しても良いのではないか」とおっしゃった上で、次のように述べられていました。

「実際は挫折しているとか、詳細の描写が違うという東大の学生がいるのはよくわかるが、それはその小説に入り込めなかった理由になるのか。もし、東大を貶める小説だという結論だとしても、もっと良くしていこうと働きかける相手は、小説ではない。小説の与えてくれた題材を元に議論をすることが重要で、この小説はきっかけだと思う。だから、東大生が『東大生を誤解するような小説は意味がない』と言うのであれば、そういう記号とは違う自分たちをもっと発信するべき」

「誰がその記号を押し付けて、利用して、得しているのか? 東大生として、そこでこそ知性と想像力を働かせて、自分たちで追求する。違う東大というものを考えてみようというクリエイティビティに変えていく力にしていければ、この小説は東大生のためになる」

また、林教授は「今回、姫野さんの小説を取り上げたのは、『東大』という記号を、脱構築したいという思いもあったから。『強い東大』だけでなく、『弱い東大がある』ということに目を向けてもいい。弱さを認めて、さらに強い東大を作ることが大事」とおっしゃっていました。

私は「すごくマスキュリンな東大だと思う。東大の挫折はずっと社会とつながっている」という林教授の発言にあった「マスキュリン」の意味は、「弱さを認められない男性性」のことを指し、「強くあらねばならない東大」から「内省すること」「弱さを認めること」を通じて「脱構築」し、「そこからまた、強く立ち上がること」が我々には必要だというメッセージではないかと考えました。

林教授はご自身の活動説明を冒頭で話された際に、「普段は大学でメディア研究をして、報道記事や番組のあり方を批判している。どんなに批判されることがつらくても、外から不都合なことを批判されることによって組織の中のダイナミズムを、変化を起こすことができる」ということを述べていたので、まさにご自身がメディアに対して行っていることを、自分が所属されている東大という組織に対しても行おうとされていたのかもしれません。

今回のトークを見ていて個人的に意識したいと思ったのは、「自分の加害性に自覚的になること」。誰しもが加害性を持っていて、気づかないところで人を差別したり、抑圧しているという現実があると思います。力を持っている人こそ、その仕組に気づき、自覚的になり、周囲の人や物事に対する優しさや思いやりを持つことが必要だなと実感しました。

登壇された姫野さんは、途中でお腹が痛くなったと言われて、途中で薬を飲まれたほど。こちらのブログにも書かれていますが、元々具合が悪い中でのご登壇だったようです。確かに、遠目から見てもわかるくらい、始終顔が真っ赤で、大丈夫だろうか。。と心配になりました。

ブックトークというものに、今回初めて参加したのですが、作家と作品への敬意があまり感じられない状況で、しかも話すことが本業ではないので本当に大変だったのではないかと想像します。

最後に、個人的に気になったことを2点。

質疑応答の最後のひとりを選ぶ時、大勢の人が手を挙げていたら、「女子学生以外は下げて」と言われ、その後に「東大生以外は下げて」と言われ、私も挙げていたけど手を下げました。すごく違和感を感じると共に、なんだか屈辱的な気持ちになりました。

そもそも、質問するのに女性であったり、オープンで開催されていたのに東大生で絞る必要あったのでしょうか。最初に当てられた3人は偶然東大関係者だったようですが、最後のひとりを当てる時に「東大生以外は下げて」と言われ、「東大のことについて言うのは、東大関係者しかダメですよ!」と言われてるような心境に。東大の女子学生の意見を聞きたい、という意図だったのかもしれませんが、なんだかもやもやしました。

また、参加者による発言で「東大生だけど実際はモテないし、ずっと彼女がいないから親にゲイだと思われていた」というものがあった時、その場でクスクス、とかではなく、ブワッとした大きい笑いが起きて衝撃でした。「そこ、笑うところ?? え、この空間大丈夫???」と思いました。ジェンダーや性暴力に関心がある人が集まっている場だと思っていたので、なおさら。

ちなみに同時間帯に、東大の駒場キャンパスでクィア理論入門公開連続講座が開催されていたのは皮肉だなと。それに参加するか悩んでいた身としては複雑な思いしか抱けませんでした。

私のまとめは以上になりますが、今回のブックトークには15社が取材に入っていたそうなので、それぞれの媒体がどう報じるかも気になります。そこにも色んな力関係や媒体ごとの価値観が見えるのではないでしょうか。チェックしたいと思います。

はままり 世界で働く日本人女性の情報サイト『なでしこVoice』 代表 ( http://www.nadeshiko-voice.com/ )。海外で働く日本人の取材を8年続け、マレーシアとタイ勤務を経て2017年帰国。現在はお茶の水女子大学大学院で勉強中。


現実は小説より奇なり?
東大ジェンダー論教授のマンスプレイニング公開処刑現場
元記事は こちらから

これ、ある方のフェイスブック投稿なのですが、めっちゃ面白いレポートなんで、読んでみて!そして、是非感想コメントを。

#おちんちんよしよしあるある をリアル体現する現場!

「おちんちんえらい」を無自覚に垂れ流す、マンスプレイニング親父の公開処刑現場。現場に居合わせたかったなぁ〜

こんな「現実は小説より奇なり」を地で行く現場、そうそうないよ!

東大生5人が起こした、強制わいせつ事件を題材にした、姫野カオルコさんの小説、『彼女は頭が悪いから』を、当の東大でブックトークした、その現場で起こった、東大教授によるマンスプレイニング現場!

その東大教授が、ジェンダー論の教授ってとこがまたまたブラックジョークなんだが…

ある方の投稿から、許可を得てコピペ!

【姫野カオルコ『彼女は頭が悪いから』ブックトーク@東大駒場 瀬地山角フェスティバル!!!】 登壇者

姫野カオルコ(作家)

小島慶子(エッセイスト)

島田真(文藝春秋、姫野さん担当編集)

林香里(東京大学大学院情報学環・教授、MeDiメンバー)

瀬地山角(東大教授、ジェンダー論専門)

大澤祥子(ちゃぶ台返し女子アクション)

姫野カオルコさんが、2016年に起きた、5人の東大男子学生による1人の女子大学生への強制わいせつ事件を題材に著した小説『彼女は頭が悪いから』について、当の東大で企画されたブックトーク、わたしもこの本を読んで、この社会の女性蔑視、男性同士の馴れ合い文化、強者なら弱者を人間扱いしないでいいというメンタリティ、マッチョなマウンティング文化などについてすごく思うところあったし、若い女性や男性にはこういうことが世の中にはあるのだということを知ってほしいと思ったのですすめまくってるし、これは姫野さん本人からこの本について聞けるんなら行くしかない!とすごーく楽しみに行ってみた。

すると!事態は、予想のナナメ上をいくものすごい展開に!!!

そもそも最初の登壇者紹介から姫野さんが「今日はダマされて連れてこられたんです〜〜、少人数でちょっとお話ししましょ、って感じかと思ったのに…」と冗談めかしながらもめちゃくちゃ及び腰。ちなみに200人?くらい入る教室が満席、立ち見も出ていた。

紹介が、東大でジェンダー論の講義を一手に引き受けておこなってらっしゃるという瀬地山角さんまできたとき、姫野さんが「なんか〜、瀬地山さんが〜、控え室でも、最初っから怒ってはって〜、挨拶しても怒ってはって〜、小島(慶子)さんが『この近くの保育所に子ども預けたりしてて駒場懐かしい』とか言ってはっても、そこに保育所があったことにすら怒ってはるかんじで〜」と笑いながらおっしゃって、会場は誇張しての冗談だと思うからどっと湧いたわけだが。

主催者の林香里さんからは、この企画の趣旨説明「この機会に東大という記号について考え、東大の弱さというものがあるなら、そのことについて考えて発信していくべきなのでは、特に東大の女子学生にも伝えたい」があり、このかたはわたしと問題意識が同じだなと感じた。

ところがである!

瀬地山氏、発言の番になったら、この本の「ファクトチェック」を始め、「三鷹寮はあんな狭いのになぜ広いって書いたんですか」は笑いになったからまだいいとして、「女子学生が1割って書いてありますけど、実際は2割ですよ!」とか(圧倒的少数であることに変わりはないじゃんと思っちゃった)、「東大生は挫折を知らない、みたいな書き方ですけど、みんな苦労してますし、僕だって挫折してますよ!」って、まあ大変なことあったんだろうけど、あんたのことは知らんわ、これ小説だし。と思った。彼の指摘は「リアリティを感じられず、東大生はこんなんじゃない!と思った時点で東大生はこの小説に入り込めなくなってしまう、拒否感が出てしまうから彼らに届かない。挫折を味わって屈折してああいう犯行に及んだっていう話にしたほうが、東大生にもわかってもらえたはずだ」みたいなので、あたしゃ「別に東大生に共感させようと思って書かれた本じゃないでしょ」と思ったyo。

それをふつうのテンションで言えばまだわかるけど、なんか知らんが、終始めっちゃ怒りモードで不機嫌全開で、誰かツイッターで指摘してたけど、あれは「俺は不機嫌なんだから、みんなでおれの機嫌をとれ!」に見えるよ。

ジェンダー論の専門家が、「自分のホームである東大で、男性で教授」の自分が、「外部から招いた、アウェイ状態の、喋りが専門の仕事ではない、女性の作家」を相手にあの威圧的な態度、しかも「俺らは中にいるから東大はそんなんじゃないってわかってる、外からテキトーなこと言うなよな」と説教する調子で、何かの冗談かと思いました。

ドッキリで「はーい、みなさーん!こういう態度はマッチョなマンスプレイニングで、家庭内ならDVになりますし、社会においても適切とはとてもいえませんね〜〜!こういう態度を取らないように気をつけましょう!」ってなるのかな〜〜、ならないか〜〜、と思ったレベルでした。

んでさー、アータ、ジェンダー論の専門家なら、この小説の中で、というか、この事件の中で、女性が酷い目に遭った、ということについて、社会的、構造的な背景にはこういうことがありますね!とか(東大について触れるのが辛かったら、一般論でいいから)解説すればいいのに、そういうのひとこともなし。

まさに、林香里さんが「東大という記号」について、社会的な考察を、この事件、この本を契機にやってみましょう、って言ってんのに、

「東大という記号が出てきた途端に、東大という記号にメチャ反応してしまい、東大という記号にからめとられてしまい、“東大という記号について考える“という客観的な行為ができなくなった人」

の姿を、はからずも見せてくださった瀬地山角さん、そういうの、わたしの大好物な話です、ありがとうございます!!!

このブックトーク、映画にしたい!

すごーくシブいコメディができるぞーーー!!!

文藝春秋の島田さんは、さすがプロの本読みなだけにコメントがまともで、しかも大人で、面白かった。

「いや、あれを読んだ人は、東大生がみんなこんなだ、とは別に思わないと思いますけどね…^_^」

(会場、同意の笑い)

(瀬地山氏、苦笑しながら「いやいやいやいや…)」

そんなひどい合間に、「ちゃぶ台返し女子アクション」の大澤祥子さんから、学生向けの「性的同意を確認するのはとっても大事だよ!」というパンフレットやワークショップの紹介があり、これはほんと素晴らしく、わたしも配りまくりたいと思ったが、本来このブックトークはそういう趣旨で企画されたんだよね?と我にかえると同時に、「性的同意の大切さは、もちろん瀬地山先生のジェンダー論の授業でも強調されていますね」瀬地山「もちろんです!」とかなって、フランスのコメディ映画みたーい、って思った。

そして、終わった後友だちと話しているうちに気づいたのは

瀬地山さんは、「僕たちの東大をわるく言うな!“貶めるな“!僕たち東大生はそんなんじゃない!」という趣旨にとれることを怒りまくりながら言っていたし、そういう趣旨の男性らしき東大生のツイートも散見する。 で、これは既視感があるぞ?、と思ったら、

「大日本帝国はそんな野蛮なことしてない!僕たちの日本をわるく言うな!“貶めるな“!僕たち日本人はそんなんしゃない!」という、慰安婦問題を扱うと不機嫌になる人たち、と同じだと思った。

共通点

・女性が性被害に遭っているわけだが、被害者の立場に立つ視点が抜け落ちている

・資料やファクトの正しさばかりを問題にしたがる

・自分たちの帰属している集団がけなされていると即断する、つーか、誤解する

すごく残念なかんじ。

しかも会場でもツイートでも、そう言ってるのは男性のみ。

「東大生だろうがそうじゃなかろうが、人間のことを人間として扱おうね!!!」

というシンプルなメッセージが、「東大という(あるいはその他、人に権威を感じさせる)記号」がからむと全然伝わんなくなる、ということがよくわかりました。

「東大の名誉を守りたい!」一心で、怒りもあらわにがんばった人が、一番、「東大の名誉」にとってマイナスな振る舞いをし続けてしまった、という面白い話でした。

本人たちだけが気づいてないところも、痛い…。

ちなみに、このブックトークのテーマは「東大の名誉」ではなかったです、特には。

あ、「東大の名誉」のために付け加えておくと(笑)、質疑応答のときに、東大の教員のかたが「この小説についてはリアリティ追求は大事なことではない。ただ、5人の東大生が性暴力事件を起こしたということは事実であって、それをみんなで考えるのは意義深いことだ。あまり文学を読んだことがない人は、何か文学論を読んでみては。」という趣旨のことを言って、会場から拍手が起きた(笑)

わたしも救われた。

わたしが、客観視のできる瀬地山氏だったら、この瞬間、恥ずかしくて死亡したと思う。

以上


それにしても三島由紀夫がここにいたら、東大教授とそのゼミ学生が示した上から目線の奢りにではなく、身もふたもない知性の劣化に対して怒っただろうと思われます。教科書や論文を読むだけでは小説を成り立たせている暗喩を理解する能力は養われません。

こういっては何ですが、東大をいわゆる記号として読んでいる者にとっては、三鷹寮の水道や女子学生の細かい割合などどうでも良いことです。こういう所に文句を言う者がいるから、話題になった上野千鶴子さんの東大入学式での祝辞でわざわざ18.1%などと細かい数字を述べたりしたのかなと邪推したりします。

三島と同じノーベル賞候補と言われる村上春樹の有名な話で、作中に「すぐにラジエターが故障するフォルクスワーゲン」という記述があり(1973年のピンボール)、当時のフォルクスワーゲンは空冷なのでラジエターはない、と指摘されました。

村上春樹は 「そうですか、ではこの物語はフォルクスワーゲンにラジエターがある世界の話として読んでください」 と、答えたそうです。

ノーベル賞と言えば半世紀経って選考の過程などが公になりました。1963年の時点で日本人作家では谷崎潤一郎と川端康成と三島由紀夫。他に詩人の西脇順三郎がノミネートされていたそうです。もちろん後に受賞した大江健三郎もいつからか候補であったろうし、別の年には安部公房もノミネートされていて1993年に68歳で急死しなければ、ほぼ受賞確実だったそうです。

実は私は高校時代に安部公房にはまったことがあって、よく理解できないながらも「砂の女」や「箱男」を読んでいました。カフカ的不条理の世界観に圧倒されて魅力を感じていましたが、結局好きだったのはどちらかというとSF的な味付けの作品でした。

谷崎潤一郎と川端康成と三島由紀夫の中では実は三島の評価が一番高かったのだそうです。しかし日本社会(文壇)の年功序列を考慮して谷崎にと思ったら65年に亡くなってしまい、年功序列二番目の川端康成が受賞したのが真相だそうです。その時点では三島には後にいくらでもチャンスがあると思われていましたが70年に自決してしまいました。川端康成が自殺したのは72年のことでした。

閑話休題。

 三島 「私の大嫌いなサルトルが『存在と無』のなかで言っておりますけれども、一番ワイセツなものは何かというと、一番ワイセツなものは縛られた女の肉体だと言っているのです。エロティシズムは他者に対してしか発動しないですね。---中略---ところが、その他者というものは意思を持った主体である。これはエロティシズムにとっては非常にじゃまものになる。ですから、とにかく意思を持った主体を愛するという形では、男女平等というのは一つの矛盾でありまして、お互いの意思によって愛するというのは本当の愛のエロティシズムの形じゃない。相手が意思を封鎖されている。相手が主体的な動作を起こせない、そういう状況が一番ワイセツで、一番エロティシズムに訴えるのだ」P22

 私は『喪失記』P238で大西が言った言葉を思い出しました。

 「恥ずかしいと思わない奴にセックスしてもらえ。相通じなくて、きっとびんびんに勃つぜ」

 ついでにあの立花隆もサルトルを嫌いだと言っていたのを思い出しました。実は一時の立花隆にはその該博な知識に憧れを抱いていたのですが、だんだんスウェーデンボルグばりの「科学とオカルトの融合」という感じになってきて、ちょっとついていけないかなと思っていたところ、IT革命を謳いながらすべてのネット文書をプリントアウトしてると書いていて、「あれ?」と思ってちょっと離れてしまいました。

 再度、閑話休題。

 このサルトルと三島と姫野カオルコのワイセツやエロに対する考え方は、かの石井隆の劇画(天使のはらわた)における「女なんかただの肉袋じゃないか」と言うセリフとともに、世間一般に言及される他者とのセックスにおいて「愛」というものが成立しないという、悲しくも透徹した結論を導く衝撃があります。

 「愛にできることはまだあるかい」とRADWIMPSは歌いますが、 そうなのです、セックスのピストン運動に「愛」はまったく介在しないのです。逆に「愛」がないからこそ興奮が在るのです。ちょっと強引なのはわかっていますが、ここはひとつ姫野オフ会のネタとして突っ込んでくださいね。

 再再度、閑話休題。すみません。

 さて、三島由紀夫が日本文化というもののそれこそ象徴として(憲法に書かれた象徴とは違う)天皇の存在に重きを置いていたのは周知のことですが、実は三島が日本や日本人をことさら意識するようになったきっかけはヨーロッパ(特にスウェーデン)訪問の経験だったんじゃないかと思われます。

 三島「事物としては、外国へ行けばわかりますよ。英語しゃべっていると自分は日本人じゃないような気がするのです。英語が多少うまくなると。そして道歩いていて姿がショーウィンドーに映ると、このとおり胴長でそして鼻もそう高くないし、あ、日本人が歩いている、だれだろうと思うとてめえなんだな。これはどうしても外国へ行くと痛感するね」P93

 三島はストックホルムを訪れた時、旧市街の石造りの洞窟のような飲み屋(ボバディラ)を素晴らしいと感嘆したという話があります。たしかに13世紀の石畳が残る旧市街の小道を歩いていると中世にタイムトリップしたようでもあり、なんというか見事に非東洋的な世界で後にジブリの「魔女の宅急便」のモデルになりました。しかしこの時、三島は金髪碧眼の美男美女たちをまじかに見て、その美しさにこそ感嘆したのだろうと思います。同時に肉体というか外観に対する劣等感も持ったのではないかと思うのです。いかに肉体改造を試みても骨格までは変えられない差異を乗り越えるための精神的な支えを日本文化(そして天皇)に求めたような気がしています。

   研究者のなかにはあの時川端康成ではなくて三島にノーベル賞が授与されていたら、三島の自決はなかったのではないかと言う人もいます。つまり自分が劣等感を感じたかの国(国民)から世界的な権威(ノーベル賞)のお墨付きを得ることで、劣等感のようなものが払拭できたのではないかと言うのです。

ちなみに姫野さんの『初体験物語』にスウェーデンを訪れた時のこんな記述があります。

---その美しさは筆舌に尽くしがたい。(中略)空港を出て繁華街を歩くと、さらに美人がうようよ、うじゃうじゃ。もう美人の大群、カタマリ、襲来である。顔が綺麗なだけでなく背も高くグラマー。(中略)「劣等民族だわ、私」と、思ってしまう。p99

さらに『何が「いただく」ぢゃ!』『忍びの滋賀』でも言及されている、世界一臭い醗酵ニシン(シュールストレミング)を食べた時の記述が

”Oh,オーエの国から来た娘さんが醗酵ニシンを全部食べた。次のノーベル賞はきっとあなただ”と誇大に激励され---p237

と書かれています。

実は私このシュールストレミングをこれから食べるという場面に遭遇したことがあります。1977か78年だったと思います。場所はストックホルムのメラーレン湖に浮かぶ船のホステル。今まさにシュールストレミングの缶詰を手にした男はゴーグルに合羽と手袋の完全装備でパンパンに膨れ上がった缶詰を三種の神器のように掲げて、外に出て行く所です。男の行く手はモーゼの十戒のように割れて道ができます。ドアが閉まり、なぜか店員が扉をロックすると同時に、船にいた人々(宿泊客ではなく地元の若者が集まるカフェがあった)は、遠くを見る眼をしてひそひそと何かを囁いたのです。しばらくすると船の窓から見える静かな桟橋をパニックになりながら全力で走る人々の姿が・・・。あまりの臭さから逃げ出した人々だったのです。

こんなシュールストレミングを食べた姫野さんは本当にノーベル賞ものの快挙だったのです。 それにしても三島の死から50年。当時、三島が国家の解体を危惧していたのとは違う形でGAFAなど従来の国家の枠を超えた存在によって、実際に国家の解体は世界中で進んでいます。社会は、文化は、言葉は、変化しています。例えば、

三島「私はかりにも力を行使しながら、愛される力、支持される力であらうとする考へ方を好まない。この考へ方は責任観念を没却させるからである。(中略)自分がいつも正しい、といふのは女の論理ではあるまいか。」p131

などと上野千鶴子が聞いたら卒倒しそうな言葉が三島から漏れたりしていますし、討論会の冒頭で三島は灰皿を所望し、「灰皿はないので床で結構」と言われたりしています。今では有り得ないことです。ちなみに最初の頃のオフ会では私もバカバカ煙草を吸っていましたけどね。

こうして社会は時代は移り変わりますが、作品として世に出た小説はそのまま何十年も残ります。その解釈は自由ですし時代によって評価が変わることもあるでしょう。それに三島の時代にはスマホやタブレットの中に本棚そのものが収まってしまうなんてことは想像もしなかったことです。読書はしないけどネット検索はするというタイプの知性が蔓延るような世の中になるかも知れません。だからこそ今、現在、作品を作り続けている姫野さんを応援するのは意味があることです。たいして三島由紀夫を読んでいるわけではないのに偉そうに語る(作品を語るものではありませんが)のは恥ずかしかったのですが、突っ込み所満載のネタにと思って書いてみました。

12月5日 ジキル

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