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お金のある人の恋と腐乱・徳間文庫
2014年11月
本書は2006年9月に新潮社から発売された『コルセット』を改題して2014年11月徳間文庫として発売されました。徳間文庫には『H(アッシュ)』と言う短編集もあります。
作家「姫野カオルコ」は「百の文体を持つ」とも言われています。本書のドライで堅い感じの文体も独特ですが、その文体でもってなされるエロティックな描写が印象深く強烈です。
本書はタイトルが重要なモチーフをそのまま表現しています。しかし、この

『お金のある人の恋と腐乱』

には若干の説明が必要です。例えば

『ある類の人々のドライな恋愛感と性的堕落』

とすれば少しわかりやすいでしょうか?あるいはいっそ

『上流階級の血統主義的結婚感に伴う特異な恋愛感と性的蕩尽あるいは変態性欲』

とするとわかりやすい?かもしれませんが、タイトルには不向きです。

『コルセット』発売時には「スノビッシュな階級小説」というキャッチコピーでした。この『コルセット』というタイトルはなかなかスタイリッシュなんですが、姫野さんも解説で触れているように、どうも現代ではコルセットからイメージするのが医療用の矯正器具らしくて、本書が醸し出す隠微なエロスとスタイルの金型としてのコルセットとは残念ながらミスマッチだったかもしれません。

階級社会というのは現代日本においては一見存在しないように思えますが、実は巧妙にベールに包まれながらも存続しています。昭和33年に初めて行われた国民生活に関する世論調査で、すでに7割もの国民が自分を中流と回答していたようです。日本の総人口が一億を突破した1970年以降はその数字は9割に達して。つまり「一億総中流」という意識が国民に定着したのです。

そもそもこの調査においては「中流」の定義自体が明確に示されていないものですから、回答の基準はたぶん経済力なのだろうと思われます。確かに高度成長期以降に所得格差は縮まって、その後に安定成長期には多くの人々が豊かさを享受できる中流の意識を実感してきました。バブル崩壊後も大震災の後ですら、人々の中流意識は揺らぐことはありませんでした。9割の中流を除くと残りは1割、そのほとんどは下流と思われ上流階級の割合は定かではありませんが大変少ないというのは確かで、私たち中流の一般人が上流階級の人と接触する確率は大変低いと思われます。

2014年の現在はいわゆる格差が拡大し固定化する方向を社会が容認しているようで、自己申告で(中流の下)の私などには不安な時代になってきました。

上流階級に属する人も没落することはあるし、それこそ下流からのし上がって経済力はもちろん地位や名誉も得て階級を移動することもできます。ある意味それが社会の自由度や寛容度、成熟度のものさしにもなりますが、それが出来ない許容しない社会は何か前近代的な封建の匂いがします。

さて、何だかくどくどと階級のことを書いていますが、実は2006年の紹介記事(↓スクロールすると読めます)で、私はなんだか妙に力んで貧乏自慢をしていましたね。あの頃の私はたぶん(かぎりなく下流に近い中流の下)という所に自分を位置付けしていました。現在は前述したように自分を(中流の下)と捉えていて、経済的にも気分的にもずいぶん楽にはなっています。(中流の下)でどうして楽なのかと言えば、実は2006年の記事を書いたあとにスノビッシュでスタイリッシュで高級志向のバーを閉めてしまい、非正規雇用の身ではありますが毎月安定収入がある生活を続けて (フルタイムになってからは8年・・・これでも人生で最長)きました。

そうすると貧乏自慢のネタだったWIN95はXPになり、現在はWIN8と以前から欲しかったMACも持っていますし、安物の自転車はそこそこグレードの高いものになりました。車はあいかわらずマニュアルのカローラですけど。元々カローラのターゲット客層がずっぽり中流の中あたりですし、車は欲しいものではなくて田舎で暮らには否応なく持つことを強いられるものですからね。欲しかったもの(PCや自転車)が買えて衣食住に不便がない生活は私にとっては実に人生で初めて経験する豊かな生活ですね。

さて、そんな私からみると本書の登場人物の悩みなど呆れて「けっ」とか言ってしまうたぐいに思えるのですが、これが不思議と「ほうほう、それで? まあ大変だよね」などと余裕の見方ができてしまいます。これはやはり筆力であり姫野さんの試み(一人称小説の客観表現)が成功している証と思われます。

本当は「スノビッシュ」について書こうと思っていたのです。が、何せまさにスノビッシュなバーを経営していた私は店を閉めてからは意図的にスノビッシュであることをやめようと思ってきたので、なんと言うかスノッブに対して愛憎相半ばするものがあるのです。

とりあえず今回はここまで。後日またまとまったら続きをアップします。と、ここまで書いて「階級というときに単純に経済力を指標とすると、いわゆる被差別部落などの問題が見えなくなる面もある」とか「経済的に恵まれなくても不幸だとは限らないし、お金で買えない幸福は確かにある」とか、いろいろ考え始めました。

ここでちょっと2006年の『コルセット』刊行時に作った読書会用の資料を掲載します。
(出てくるページ数は単行本のものです)



『コルセット』新潮社刊 読書会 ジキル版資料 06年10月8日

○簡単でごく普通に使う言葉、例えば「感じる」は「かんじる」とひらがなが使われ、ここにピックアップした例文にはあまりありませんが、時折ほかの作品ではあまり見ない漢字が使われています。例えば「揶揄」や「憚る」「躑躅」など。この微妙なアンバランスが独特の味を醸し出しています。同じ新潮社の『整形美女』も「侃侃諤諤」などの漢字を使用しているし、文体としてはやはり硬質な印象を受けます。これは文芸系の出版社仕様の文体??? んなことないか。

○バブル期には8割の人間が自分を中流階級だと思っていたようです。上流階級と下流階級が一割ずつ。ところが最近はこの下流階級が増えているらしい。
(年齢)× 10 = (中流の年収) 
という式で出た数字より下の人が下流だって言うんですけど、ほんまかいな。で、この下流階級の人たち。上昇志向がないもんだから貧乏でも暮らせればそれなりに楽しいこともあるしと現状にわりと満足してたりするようです。ちなみに年収も含め私は完全に当てはまりますぞ。上流の人たちはその階級から降りることには恐れを抱いており、なんとかして上流にしがみつこうとします。かくして現れる階層固定化社会。つまり階級間の移動が少ない社会ができあがるってことです。

○生まれながらに金持ちである人たちと、急に金持ちになった人たち。庶民からすればどちらも「お金持ち」なんですけど・・・。庶民が「成金」と言う時、ちょっと羨む気持ちも入っているのに対し、生まれながらの金持ちが発するこの言葉は「侮蔑」であろう。例のライブドア騒ぎでは言われた「世の中には金で買えないものがある」という言い方。貧乏人は「愛」だの「人情」だのという曖昧で情に訴えるものを思い浮かべ、上流階級の人々は品格や伝統、氏素性などのいまさらどうすることもできないものを思い浮かべていたのでしょうね。そこが階級なるもののの所以。

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P44
映画や演劇、小説や絵画。そうしたものについての、たがいの感想をつたえあう。
遊園地や行楽地。そうしたところにふたりで行く。
ボートや車。そうしたものにふたりで乗る。
テニスやスキー、ダンスや歌。そうしたことをふたりでする。
これくらいだろう。
男と女が、日常ではない感情を抱きあい、日常ではない甘さと香辛料をふたりで求めることにしましょうと、ある種の「合意」をしたときに、彼らがすることは、結局は、これくらいしかない。
合意がはじまったばかりのときは、すべてが薔薇色にかがやき、そのうちに慣れ、だれ、おわる。
それでも、また、時間がたつと、べつの相手と、こうしたことをし、以前のようによろこび、飽き、おわる。
そのたびごとに、その行為を恋だと人は名づける、ならば恋とはすべてが、インターバルをあけての、同行為の反復である。いつも終わるものである。

○これは恋を冷めてロジカルに分析するとこうなるというヒメノ式。なんだか身もふたもないが、「あれ?・・・うーん・・・そ、そうだよな・・・確かに」という納得感有。

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P48
男のラベルにひかれる女は清らかなのだろう。淫蕩な女にとってラベルは無価値だ。わたしは淫蕩なのだろう。自分の舌がうまいとかんじるか否か、自分のからだが気持ちいいとかんじるか否か。基準はそれしかない。他人の評価はなんの意味もない。

○スノッブを気取る者(統計的には男が多いか)のなかには自分で判断するための舌、つまり判断基準となる計測器に自信がないために、いわゆるウンチク男になる者が多い。

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P70
夫と結婚することは、わたしが大学生だったころから決まっていた。兄にとっても夫にとってもわたしにとっても、両親ほか冠婚葬祭で顔を合わせる人みんなにとって、こんなふうに結婚することがふつうなのである。こんなふうに結婚することによって引き継いでゆく財産がある以上、ひとり勝手に個人的な恋愛をするわけにはゆかないし、たとえしてもうまくいったためしがない。

○私の周囲の人間たちも結婚するということにたいして、セレブ?じゃないのにそれほどロマンチックな思いを抱いているとは思われなかった。狭い私の友人関係で・・・恋愛結婚が5名(内できちゃった婚1、かけおち1)・お見合い結婚(お見合いほど堅苦しくないが結婚を前提とした紹介という場合も含む)が4名・独身(私も含め)が2名・事実婚が1名、計12名のうち2名は離婚。

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P75
こどもは犬だ。
シェパードをしつけるように接するべきだ。

○これはある意味正しい。しつけとはそのようなものであって、子供の自主性とか人格とか個性とかをあまり尊重していてはできないかも。基礎学力は脳の奥深くまで浸透させてこそ応用が生きる。しかしまあ、「こどもは犬だ」と言ったら怒られますよね、普通。

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P76
品などというものは気体である。

○実は私も長年この「品」というものがどうにも捉えどころがなくてこまっていたのです。わりと下品というのは体感的にわかるしいやだなあと素直に思うのですが、上品ってのがねえ・・・よくわかりません。

○『整形美女』より抜粋---脱糞や放屁をすることを他人に感じさせないことが上品である。しかし、脱糞など放屁などしないと嘘をつくことは厭味であり、さらに脱糞したり放屁したりする自分を自分で見ないことはレストランのテーブルで脱糞してみせるよりも下品なうえに卑しい。そして下品なうえに卑しい者は必ずこの例え話について言う。なんのことだかわからないわ。---新潮文庫99ページ

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P83
建設的で生産的な人生をいかに歩むかと考えたり努力したり自己を鼓舞したりするようなことは、働かないと食べてゆけない人たちがすることで、病気にならなければそれでよくて、あとはそのまま死ぬまで退屈をまあまあうまくてなずけて暮らしてゆくだけの人生を送る道を当然としているわたしたちを、性根が腐っているとか頽廃であるとか言われても、親族はどうだかしらないが、わたしにかぎっては、どちらかといえば同意する。だってわたしには、こうした環境を変革する力などないのだから、ほかにどうすればいいかわからない。

○これが、いわゆる二世議員やタレントや世襲の長に対してよく言われる文句に対する答えでしょうか。

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P89
「歌舞音曲や絵画などというものは……、そういうものはお金のある人が、自分の気に入ったプレイヤーを援助するとむかしむかしから決まっています。---以下略---」


○これがパトロンというやつですね。企業になるとメセナと言ったりもします。

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P104
あの場所にいあわせたら、笑う人も大勢いるはずである。だが、笑う人は、笑うということで自分のないぶにもある淫猥なものから逃れられると自己防衛の手段を咄嗟に選択しているのではないかと、---

○相原コージの漫画でありましたね。裸で抱き合ったロマンチックなカップルの上半身の絵。んで、下半身に場面が変わるとパッコンパッコンというある意味とても滑稽な状況。なんだか性の深淵を覗く思いでした。

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P107
そして画像がわたしにとって決定的に性的煽情を欠いたのは、女王の視覚聴覚的な外見だった。女王というものものしい呼称におよそ不釣合いな下流のことばづかいと世紀をとりちがえたような黒いコルセットと、歩くはおろか履くだけでも痛そうな靴。相手に罰を与えると言いながら自分が罰を与えられているようなナンセンスな拷問具に、靴は映った。ポルノグラフィーというものが、仮想体験により性的な興奮を与えんとしたものである以上、ではもし、このような性戯を行う女は、おこなうために日常ではクロゼットなりチェストなりに収納してあるこうした衣類や靴を取り出してきて支度するのかと想像してしまい、支度中の彼女の、いざおこなわんとする殊勝なまでの気力が、まるで田舎議員の鼻息のように滑稽で、画像を映す部屋の暗闇のなか、私は嗤うのをどうにか忍んだ。

○男がほぼ必ず悩んだであろうエロ本ズリねたの隠し場所。隠すという行為そのものがオナニーと分かちがたく結びついていてとても淫靡でした。昔、深夜に自転車でわざわざ遠出して郊外の自販機エロ本を買っての帰り道。もしここで交通事故にあったりしたら、「○○市の高校生、深夜に隣町のあぜ道で事故死。なぜそんな時間に隣町へ・・・現場に散乱していたビニ本」ってな記事が出るのかなあと、”秋の一人交通安全運動” を行ったものです。

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P173
恋愛で結びつくなどという行動は、働かないと食べてゆけない人がすることであるし、恋愛だけについてなら、それは任務がかかわらない時間や場所ですることであると、彼女はつつましく言った。

○働かなくても食べてゆけるってのは、一見羨ましいことだが健康ならば70年80年の人生を働かずに生きてゆくのは、どう退屈と付き合うかという意味でたいへんかも。

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P173
淑女の生活以外になにを選べるの?
そう。夫人の言うとおりだ。対岸の清純な人々より、わたしたちは能力がないのだ。語学も運動も科学も芸術も、もしお金さえあれば対岸の人々はわたしたちよりきっとはるかにうまくやってのける。「分相応」というのは、おそらく彼女やわたしや父母や妹や、わたしが縁談を断った人やその両親や、こちらの岸にいる者を慰めるためにこそあることばなのだ。

○身もふたもない言い方をすれば、たいして能力がなくても金があればなんとかなるってことだったりもするのですね。

○『整形美女』より抜粋---身の程、というならば、では仮りに、たとえばロトくじに当たり、その金を元手に株を利殖し、宮殿か王城のような住まいを手に入れ、その住まいにそぐう家具と食器、調度品を手に入れ、顔かたちもきれいになおしたとする。すると、この者は、人文、理数、文化芸術、語学、社交、そして運動、すべての能力が優れていなければならない。でなければ似つかわしくない。そこでこの者が必死の努力をし、それらを身につけたとする。それでもこの者は依然として「似つかわしくない」であろう。なぜなら、ロトくじに当たることなく、整形することなく、また努力することなく、この者と同じ外見と住居と知力と体力を所有して生まれついた者の前に、この者は屈する卑しさを備えてしまうからである。…新潮文庫300ページ

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P201
「アディニアさんみたいにかわいいのがウケるから。神奈川県出身の男は、たどたどしい日本語に欲情したんだよ。幼くかんじさせる効果がある。たいていの男は自分より低いところにいる女に欲情するんだ」

○相手の人格(自我というかその人らしさのようなもの)を無視することで快感を喚起させられるというのが、欲情のメカニズムなのかも。

○例文の「かわいい」がくせもの。例えば男が女をかわいいと言ったとします。ここで女が「どこがかわいいの?」ではなくて「かわいいって何?」と男に尋ねたとします。すると尋ねられた男は女を一瞬前ほどにはかわいいと思わなくなっていることでしょう。



コルセット・新潮社
2006年9月
セレブ(セレブリティー)
これだけ言葉が独り歩きすると、誰も辞書でセレブの意味を調べたりはしません。かくして、今日もテレビや雑誌で新たなセレブが誕生していることでしょう。

セレブという言葉が一般に使われるようになったのは、わりと最近のことですね。例の叶姉妹がメディアに出てきてから一気に流通したような気がします。私はあの姉妹を時々TVで見る分には嫌じゃありません。実際に目の前に現れたらちょっと臆してしまうかなとは思いますけど。で、問題は言葉のほうで、現在我々が使っているセレブという言い方は、英語の本来の意味である有名人ではなくて単に「金持ち」として使われているようですね。本来は貧乏だけどセレブということがあり得るのですが・・・。日本の場合はなんだか金持ち奥さんとその娘(ワイドショーや女性週刊誌の作った構図)が典型的。

閑話休題。
というわけで、このコルセット。いわゆるセレブのお話なんですが、なんと言いましょうか登場人物に感情移入することなく読める(読まされる?)のですね。だって、姫野さんご本人があとがきで書いているように、まったく異なる環境に暮らす人間の生活はそれこそ文字通り住む世界が違うわけで、知らぬ世界の・・・あれ?・・・待てよ、それなら最初から純粋なフィクション、それも別次元の世界を描いた話ならファンタジーやSFとして読むと良いのかも。そうそう。そうして読んでみるとクールに「ほぉ−、人それぞれいろんな悩みがあるのね」と面白みが湧いてきます。

『反行カノン』『フレンチ・カンカン』『三幕アリア』『輪舞曲』という四つの物語。それぞれのエンディングが次の作品の冒頭になり、四つ目の最後は一つ目の冒頭になっている。文体も実にセレブっぽく(どんなだ?)これまでの作品では使わなかった言葉(難しい漢字なども)を敢えて使うことで、独特の雰囲気をかもし出しています。そこには『ツ・イ・ラ・ク』で描かれた身も世もなく焦がれる恋愛感情やドロドロはなく、クールな打算と富がもたらす生活への執着が淡々と描写されていて、最初は違和感を感じることでしょう。ところが読み進むうちに少しずつ違和感が消えて行きます。それは彼ら(セレブ)たちの置かれた状況において成される選択には、それなりにロジカルな整合性があると納得するからですね。私も含め非セレブである読者はたぶんセレブ(金持ち)に対して嫉妬も含んだ嫌悪の情のようなものを抱いていますから、そんな読者を得心させるというのはこれは並々ならぬ筆力と知力のなせる技です。

で、またジキル式作品紹介の常で私の話に脱線しますが・・・。
実は、わたし・・・貧乏です。いや、あらたまって言うほどのことではありませんが事実です。生活に余裕がなく日々細々と暮らしているのですが、不思議なことに他人からは優雅な小金持ちに見えたりするらしいんです。ボロ建物のローンを抱え、いまだに手動で窓を開けるマニュアルギアのカローラに乗りWIN95のパソコンを先月まで使っていてやっと60回払いの月賦でXPモデルを買って、これから5年は使うぞ(実際は使うしかない)と気合を入れていたり、趣味の自転車は去年からすでに三台目だが、最初はホームセンターのバーゲン品で1万5千円、それが壊れて二台目は元々持っていた錆ついたミニサイクルを直して使い、さらにそれも寿命になったので現在はリサイクルショップで9000円で買ってきたミニサイクルを自分でカスタマイズして乗っています。

休日にサイクリングロードを走れば、何十人ものサイクリストとすれ違いますがみんな数万から数十万、なかには百万単位の自転車に乗っている人もいます。自信を持って自分の自転車が一番安物だと言えます。しかし、それでも人は私を優雅な小金持ちのおっちゃんと見るのですね。なんでだ? 服はジャスコかファッションセンターしまむら。たまにお洒落?でユニクロだし。靴は基本1000円。時々通販の380円。ボロ建物はあちこち壊れたりしますが、ほとんどホームセンターで材料を調達して自分で修理します。外食はほとんどしませんし、たまに食べるときは1000円以内の予算でラン チですね。ファミレスなどのドリンクバーとかサラダバーとかは基本たのみませんが、たまに100円追 加でOKのときなどに利用します。で、かならず元を取ろうとして必要以上飲んだり食べたりしてしまい ます。悲しい貧乏人の佐賀・・・(これじゃ佐賀県に怒られる)・・・さが。

なんだか書いているうちに開き直った貧乏自慢みたいになっていますね。そう、確かに自分だけの生活行動については貧乏だからといって特に辛くも感じません。どちらかと言うと「どうだ。文句あるか」って感じ。しかし、ことが他人や世間や役人とかが絡んでくると、私はとたんに不機嫌な頑固オヤジとなって愚痴のひとつも言いたくなります。近所の町内のお付き合いで会ったこともない人にお香典を届け、いつどこでやっているのかも知らないお祭りの寄付と称した上納金を払い、上下水道料金が値上げされては怒り、市県民税の額に呆れ、なんにも悪いことはしていないのに来月からローン金利が上がって月の返済額が5千円上がるのに怒り、会費制の集まりは内容と値段のバランスを情けないほど思い悩みます。さらに急な出費(例えば車が壊れて修理しなければならないがいくらかかるかわからない場合など)には財務体質的に対処できません。基本的に日々の暮らしは自転車操業なのです。

そう、これはセレブ(金持)とは真逆の生活ですね。例えば趣味の自転車なら私とセレブ(金持ち)が一万円と百万円の自転車でいっしょにサイクリングするのはありなのですが、数万でも急な出費にはバタバタしてしまうという感覚を共有するのは難しいですね。そもそもお金持ちは数万だろうが数十万だろうが急な出費などとは思わないんでしょうし・・・。

ただ一つ私が小金持ちに見える理由があるとすれば、あまりあくせく働いていないように見えるということでしょうか。本業だけではちょっと生活が厳しいのであれこれと他の仕事もしていますが、そうするとどの仕事も本業ではない感じで、はたから見るととても気楽にやっているように見えるようです。確かにサラリーマン的な仕事や人間関係の悩みやストレスはありません。さらに告白?すると実は、私、働きたくありません。えらそうな態度の客にへこへこしたくもないし、めんどくさい人間関係は作りたくありません。例えばそれこそ贅沢をしなければ一生暮らせるぐらいの小金があれば、働かずに毎日趣味の自転車に乗り、へたな絵を描き、中断しがちなギターの練習をし、パソコンで遊び、本を読み、料理をし、趣味の日曜大工でリフォームをし、月を眺めながら長風呂をし・・・ようするにそんな生活を理想としている自堕落な怠け者です。これってある意味ではカルチャー教室に通う暇なセレブ奥様そのものですな。

しか−し、そんな私の生活に決定的に欠けているものがあります。それはエロ。エロが足りん。ちゅーかエロと無縁なんですよ。そこんとこがどうも私的に不満なとこです。ここでやっと本書に戻りますが、ここで描かれるエロは湿った愛だの恋だのとは対極にある渇いた性。始めから恋愛という不確かで曖昧な感覚を抜きにして存在する性は、姫野さんの言う「エロスじゃなくてエロ」でありますね。セレブに似た言葉でやはりここ数年で一般化した言葉が「セフレ」セックスフレンドの略。どのぐらい一般化しているかというと、メール受信のスパム対策で拒否ワードに「セレブ」と「セフレ」を入れると効果が上がるというぐらい一般化しているんですね、これが。別にセックスフレンドが悪いなどとは思いませんし、羨ましい限りですが、例えばスパムメールにあるセフレはれっきとした売春という商売であって、不特定多数に向けた性処理という感じで、個人差はあるのでしょうけど私にはエロを感じる対象にはなりません。その点コルセットの登場人物の性的関係というものはセックスフレンドなんですが、エロエロです。輪舞曲で藤沢さんが澪に対して行った [乳頭をさっと突く]部分などは、エロですよぉー。私など一瞬、澪の気持ちになってクラクラしましたです。

コルセットの帯の文言「スノビッシュな階級小説」というのは、・・・どうなんでしょ? 実は私が小金持ちに見られる最大の理由が、田舎にしてはかなりスノビッシュで一流志向の高級バーをやっているってことなんですね。たぶん。お客さんのなかにはそれこそ本書ででてくるような人種もいたりしますが、だからと言って私が同じ人種に見えるのはなんだかこまったことではあります。しかしそうでないお客さんも含め、みんな暗く怪しく非日常的でスノビッシュで排他的とも言えるグレード感(階級格差?)を楽しむためにやってくるわけで、私があえて貧乏で困った話などをするのはサービス業の接客術としてはマイナスなんですね。ですから、私はマイペースでやっている悠々自適のスノビッシュなオヤジを演じることになり、それがまた人に伝わるという誤解の円環になるわけです。まったく。あれ? 本の紹介が完全に私の個人的な愚痴になってしまいました。

それにしてもいわゆる上流階級の生活を、商品名ブランド名をほとんど使わないで描写するのはなかなか至難の技。30年前に田中康夫が「なんとなくクリスタル」で行ったブランド固有名詞の羅列によって所有者の人格を類推し分類する、という手垢にまみれた手法は、深くメディアに浸透し人々はそれを当たり前と思うようになっています。例えばホステスとかキャバ嬢が初めての客を見るのに、人格や立ち振る舞いな会話の内容などは二の次。ファッションのブランドでさえ、それほど気にはしないといいます。どのみち一度着た服など古着でしかありませんから。しかし腕時計と車は如実に資産状況を表し、しかも良いモノは中古であろうとかなりの金額を担保します。私の薄い知り合いでお金持ちですがちょっと怪しい職業?の人がいます。普段はあまり身なりにも気を配らずに国産高級車なんですが、オネエちゃんのいる店に行く時だけは一戸建てが買えるほどの超高級外車(運転手つき)に300万円のなんとかという腕時計をしていきます。服はさすがにブランドものを身につけているようですが、似合わないのでたいして見栄えはしません。ですから初めて行く店の入口にはまず車で乗りつけます。するとまず超高級車を見たボーイが丁重に席に案内します。席についてまずすることはタバコを取り出すこと。ホステスがライターで火をつけながら客の手首(時計)を見る機会を作るわけですね。それだけ。たったそれだけで彼は上客として扱われます。

ただし、これがお金だけでなく品とか格とかを求められる上流階級となると上記の人は仲間に入れません。 われわれ庶民が口にする「お金で買えないものがある」というのは、愛や人情などのもともと曖昧で定義しにくいものを持ち出すことで、マネーパワーに対抗しようとしているのでしょうが、ある種類の人々が「お金で買えないものがある」と言う時に、品や氏素性家柄など一個人がどうこうすることのできないものを指していたりします。ちまたに流布し、ここ数年で大増殖中のセレブは基本的に成金ですけどね。読者同士で本書のことを話す機会があったのですが、「セレブ(お金持ち)」や上流階級などとというときに、具体的に浮かぶのはどちらかと言えばいわゆる成金のイメージのほうでした。だって、本当の意味での上流階級など覗いたことがないわけで・・・。

セレブ(セレブリティー)
これだけ言葉が独り歩きすると、誰も辞書でセレブの意味を調べたりはしません。かくして、今日もテレビや雑誌で新たなセレブが誕生していることでしょう。

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