直木賞作家『姫野カオルコ』(姫野嘉兵衛)の応援サイト。ディープな読者も初めての方も大歓迎。

サイケ・集英社
2000年6月
70年大阪万博は私も見に行きましたが、延々待ってやっと見た月の石がなんだかニセモノに思えて・・・。

68年はいろんなことがあった年で、ざっと列記してみると・・・安田講堂占拠(翌69年に大攻防戦があった)、府中3億円事件、金嬉老事件、マーティン・ルーサー・キング牧師暗殺、メキシコ・オリンピック(個人的にはサッカー銅メダルが感慨深いが、思い起こすのは陸上200m表彰台で黒手袋の拳を星条旗に突き上げた2人の黒人選手の姿)、例の「花の首飾り」もこの年。ピンキーとキラーズ、本HPの掲示板で話題になってる「イムジン河」の発禁、メリー・ホプキン「悲しき天使」、永井豪の「ハレンチ学園」、ちばてつや「あしたのジョー」、水木しげる「ゲゲゲの鬼太郎」、言わずと知れた「巨人の星」、少年ジャンプ創刊、映画「2001年宇宙の旅」、「わんぱくでもいい、たくましくそだってほしい」・・・みんなこの年です。そしてGNP世界2位。今にして思えば、70年前後が大きな大きな戦後の転回点でありました。

「戦争を知らない子供たち」だった私の世代にとって、この時期に刷り込まれた文化は、血肉となって今もなお体内に潜伏しているのです。さて、「オー、モーレツ!」という作品。小学五年生の瑞々しい感性と残酷でフェティッシュな語りは、ほとんど強制力を持って私を過去へ引きずり戻します。題名はもちろん小川ローザのCM。なんか縫い目のないツルッとしたパンティが新鮮で、CMのたびにドキドキ。ところで、物語や作者の意図とはまったく関係ないんですが、主人公の飼っていた犬の名前「コロ」。私の家にも猫ですが「コロ」がいました。茶トラの雑種で、半野良だったのを私が餌をあげて飼うようになったと記憶してます。親はそんなもの猫は食べないと言ったけど、コロッケをあげたら食べたのでコロ。

コロは私の横で炬燵に入っていた時、老衰で死にました。子供だった私は、コロが死んだことを知らずにしばらくTVを見ていて、はっ、と気が付いた時は死後硬直が始まっていて・・・。私はこの作品を読みながら、コロを入れたダンボールを持って、トボトボと夕暮れの道を歩いた・・・35年前のあの日に・・・引き戻されたのでした。

本作品の中では、「お元気ですか、先生」が一番好き。やってくれましたって感じです。実は私もね、トラウマがあって・・・4年の時・・・ウンコ・・・。


サイケ・集英社文庫
2003年6月
文庫版はまず著者紹介で「どうせ滋賀県出身」とずっこけますが、それ以前に、あの“著者胴体”写真で・・・まあ・・・何と言うか・・・つかみはバッチリ。(著者胴体写真を見る)

さて、突然スカートまくりの話になります。解説の永江朗さんが中国の「見えても恥ずかしくない。だってパンツはいているから」という、目からうろこの話を紹介してくださっていますね。私も当時はスカートめくりをしたんですが、中身を見ることそのものよりも「いやーんH」という反応が欲しくてやっていましたね。あれは今にしてわかりますが、完全に媚態でありました。そころで小川ローザの白パンティには興奮しましたが、つい最近のCM、菊○怜嬢の白パンにはピクリともせんぞ。そのかわり同嬢が背広姿でウクレレを弾いて牧伸二と唄っているのはちょっと良いか。調べてみたらパンツという下着そのものがそれほど歴史のあるものじゃないんですね。1932年に起きた史上初めての高層ビル火災、白木屋デパートの火災。その時に着物のすそを気にした女性たちが逃げ遅れて多数の死者が出たのを受けて、いわゆるズロースの普及が進んだのだそうです。しかしその後40年近くパンツと言えば白でヘソ下まであるようなシロモノが主流でした。70年頃になっていわゆるビキニというものが出て一般的になりましたが、デザイン性が実用性を凌駕し始めた時代でもありますね。

このままでは延々パンツの話になりそうなので、サイケの話をしましょう。私にとってサイケデリックというのは、原色の色として記憶されています。これは当時TVがカラーになり、雑誌にも色が溢れ、ファッションもカラフルで自由に色を選べる時代になったことと関係があるのでしょう。色自体は昔も存在していた(パステルカラーなどという感じのものはなかったか?)のでしょうが、人々がやっと様々なものの色を自由に選択出来るようになったということ。当時小学生だった本書の主人公には、そうした色が見えて来ていたのに、まわりの大人たちはまだ白黒で社会を見ていたところに起ち現れるギャップ。当時安保と言って騒いでいた人たちは、結局カラーを選択することなく灰色のまま現在に至っているのかも知れません。

よく子供やペットが出てくる話は、受け入られやすいと言います。基本的に、子供やペットが純真無垢な存在として共感を得る構造になっていますね。しかし姫野作品は「特急こだま東海道線を走る」などもそうですが、こうした前提(子供やペットは純真無垢)自体を揺さぶる独特の視点を持っています。子供やペットは適切な表現を持たないがゆえに、勝手に誤解される存在なのかも知れません。まあペットについてはちょっと置いといて(オイオイ)、子供は我々が思っている以上に物事の本質を見抜いているのですが、それを説明する言葉を持たない。大人は物事を説明できるがゆえに、言葉に溺れて見えない、あるいは見ようとしないことがあるのです。姫野作品に出てくる子供には、矛盾の塊でしかも不思議な存在感が宿っています。

「ひ17」という番号の集英社文庫も、本作を含めると「ひ17−5」となり、棚にさした状態でも姫野作品がまとまった存在感を示すようになりました。単行本未収録だった作品「ちび」が「通りゃんせ」の替わりに入っています。ちなみに話題沸騰の著者胴体写真は発売一ヶ月前ぐらいに撮ったものだそうです。だいたい人はこのくらいの年齢になると、棒っきれなどを振り回して「ナイスバーディー」などと言いつつ体型が崩れてゆくものですが、姫野さんのはもうね、ズバリ・・・「ナイスバディー」です。

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