直木賞作家『姫野カオルコ』(姫野嘉兵衛)の応援サイト。ディープな読者も初めての方も大歓迎。

純喫茶・PHP文芸文庫
2016年3月
電子書籍でしか読めなかった「ちがうもん」を改題して新たに文庫化
これは記憶の物語です。
本作における記憶は懐かしく何かを思い出すというたぐいのものではなくて、細部まであまりにも鮮明な記憶なのにその意味がわからないという不思議な記憶の話です。普通自分の記憶を辿るという時に人は現在の大人の自分の感覚やルールに乗っ取った文脈でしか記憶を辿れないものです。実際は細かいことを覚えていないのに、現在の自分に理解出来得る解釈に沿って物語を都合よく再構築してしまうものです。

しかし、姫野さんの記憶はいわゆる写真記憶と呼ばれるもので、その場面の色や空気感や匂いも含めて全部ひとつの完成された情報として再現されるものなので、現在の大人の感覚で都合よく解釈をする余地がないと言えます。その鮮明な記憶は姫野さんを苦しめたりもしましたが、地味ですがまぎれもなく傑作と言える本作を作り出す源泉になっています。

・・・この文庫に収録された五編は、「純喫茶」がどこにでもあったころの記憶をモチーフとしています。したがって私の子供のころの記憶ということになりますが、過ぎた時代の風俗を綴るものではありません。「子供の記憶をモチーフとした短編集」といったほうが、背景とする時代がどうのというより、もしかしたら適切かもしれません。・・・
------あとがきより抜粋


ジキルにとって「純喫茶」は、ひたすら甘酸っぱく、う〜む思い出すだけで顔から火がでそうな思い出の場所であります。昭和48年ころ、田舎の高校生だった私はろくに味もわからない一杯のコーヒーで何をするでもなく2時間以上も居座っていたりしました。当時の喫茶店はもう1軒も残っていません。さいわいなことに還暦を迎えた最近の私は姫野さんのような写真記憶を持っていませんし、それどころかいやな記憶は積極的に消してわずかに残る良い記憶だけを反芻して生きていこうという前向き?な考えに染まっておりまして、純喫茶の甘酸っぱい思い出は甘いほうだけ抽出して味わいたいと思う今日この頃です。


特急こだま東海道線を走る・文藝春秋社
2001年11月
2004年10月「ちがうもん」と改題して文庫化
誰もが持っている子供の頃の記憶。良いことも思い出したくないこともニューロンに刻み込まれた情報は消えることがない。人は多分様々な記憶を封印して生きているのだと思う。なぜなら、忘れられないことは苦痛だから。記憶の呪縛は非常に個人的なものであり、そうした苦痛を他人と分かち合うことができないから。私がもしそうした過去の記憶に苛まれている人に会ったなら・・・できることは、いっしょに苦しむことでも、忘れよと助言することでもなく今現在をいっしょに楽しむことを探してみることぐらいしかない。楽しむというのは、なにも毎日ディズニーランドへ行って遊ぶということではなく日常的に心地よい生活スタイルを得るために努力するということだ。

えー、「なぁーに気取ってるんだジキル」という声が聞こえるようです。はい。そもそもしばらく作品紹介を書いていなかったので、文体が違ってます。この作品のモチーフは記憶ということです。それも焼き付けられた詳細な記憶。想像したり改竄したり、都合よく忘れたりすることができない記憶。作者はよくその記憶のなかに閉じ込められて現実との境界がわからなくなったと書いています。そして、その状態をなんとかしたいがために一度無理矢理にでも記憶を元にして物語を再構築する必要があったとのこと。「喪失記」の冒頭で理津子が大西に語る子供時代の話もそうですが、この記憶力(と言っていいのかどうか)そのものが驚異的です。私など小学生低学年ぐらいの記憶がすでに薄れていて、ほとんど断片しか思い出せません。どうも私は人見知りするけどおとなしくて、手のかからない子供だったようなのですが憶えていないことには実感がありません。ところが、この作品を読むうちに次々と記憶が蘇ってきてそれこそ洪水のように押し寄せる記憶に溺れそうになりました。

たとえば、裸足で踏む床の板が冷たく感じる季節のある日曜に広い公民館の真ん中に敷かれたゴザに正座していたこと。私は幼稚園から小学校が終わるまで剣踊というものを習わされていました。親は共稼ぎだったので、私を連れて行くのは祖母。東京の赤坂にある何とかセンターで踊ったり、福島の会津城で大勢の観光客の前で白虎隊の踊りを披露したりしたはずなのに・・・。今ではほんの一動作も憶えていません。記憶にあるのは、座っていた公民館の冷たい木の感触。そして日曜で遊び疲れた同級生たちが興味深そうに覗いていた窓。理解できぬものを見た時の呆けた顔が並んでいた窓。

と、ここで「ハッ」と現実に戻り「うーむ、あのまま剣踊を続けていたら、時代劇の切られ役ぐらいにはなれたかも」などと考えたりして・・・。姫野さんはこのサイトのBBSなどで「事件という事件もおきない非常に(じみ)な作品ですから」とおっしゃっていましたが、私は「しみじみ」と読ませていただきました。かえって純文学好きの方などに姫野作品を薦めるには良いかと思います。それと忘れてはならないテーマが60年代、作者の出身地である滋賀県の方言による絶妙な会話、ふるさとや家庭や自然の温かさという誤解などなど姫野節は健在でございます。



特急こだま東海道線を走る・文藝春秋社・書評その2
11月8日におこなわれたサイン会は大盛況でした。参加者の拍手とともに会場に、あのヒメノ式の作品群を創出する源の姫野カオルコさん本人が登場なさった時、神々しいオーラが店内に満ちて天上からはオバQ音頭の妙なる調べが・・・・・・さすがにそれはm(._.)m・・・聞こえませんでしたけど・・・。

会場や二次会などで、参加者が雑談をするなかで気が付いたことなんですが。もちろんディープな読者はすでに「特急こだま・・・」を読んでいて、それぞれが自分の感想を持っていました。作中の少女に感情移入して読んでいるうちに、自分自身の過去が蘇ってくるところまではいっしょ。しかし当然ながらそれぞれが思い出したものは時代も内容も個別のものでした。そうした記憶喚起スイッチが作品内に散りばめられているのは確かです。ところが蘇るのは良い記憶ばかりではなく、無意識の奥底に封印された「いやな記憶」も蘇ったりするんですね。当人にとっては地雷を踏んだようなもので、避けようもありません。この地雷原はそれこそ隠れて見えないわけで、物語世界の出来事の中では全然重要でないところなのに、ドカン。

人が子供の頃のことを思い出す時、当時わからなかった出来事の意味を考えたり、悟ったりするのはもちろんですが、子供ゆえに敏感に感じた「言葉にできぬ思いのもやもやした感覚」もいっしょに思い出します。そしてそれは、成長して大人になった今「無意識に大人なんだからと抑圧している感覚」と非常に似ていたりします。「おとなげない」と「子供らしくない」はメビウスの環のように、ねじれて繋がっているのです。本書も物語的には主人公の過去と現在はただ一本の時間で繋がっているのではなく、ねじれた部分が読者の琴線を弾いて様々な音色を奏でるのです。しかし私もこの文を書くのに、頭の中ではわかっているのにこうして文章にすると隔靴掻痒の思いです。あぁ、ねじれがねじれが。

本当は二次会でお聞きした○○さんの記憶について書こうとしたのですが、やはり他人の秘められた記憶をこういう所で使うのはよろしくないと思いまして・・・。なにせ内容が内容だけに・・・変態が・・・ご自分で・ ・・なされて・・・ヒソヒソ・・・。



書評その3 by ハイド
よく子供は純真無垢だと言われたりするが、子供が子供であることの大きな要因は、自らの欲望にたいして無自覚でしかも抑制がきかないということだと思う。全ての行動が快不快によっている状態こそが無垢なのであって、少しでも社会的な行動を取ればすでに純真は失われているのではないだろうか。

この場合の社会とは親を含めて半径500mぐらいがその全てであるような社会を差す。その意味で本書の主人公である子供は、親やともだちや他人にまで気を使っており、自分をころすことを知っている。本書は大人になった主人公が曇った鏡を磨くように自分の記憶を辿って現れた、「あらかじめ失われた純真」の物語である。

読者は子供がその置かれた環境で、健気に振る舞うさまにいたましさすら感じるかも知れない。しかし、作者の分身でもあると思われる子供も、のちの大人も自分が不幸とは思わず、自分で選択できない環境に起因することを悩んだり怨んだりしてもしかたがない、というある種の諦念を有しているように思われる。こうした諦念を持つことは、自分自身の存在を認め確認するための通過儀礼の様なものであって、けっしてマイナスの感情ではない。

本書は作者自身にとって、自らの記憶を元にして、子供ゆえに言葉にできず苦しくもどかしかった思いを理解し、止揚するための確認と再出発のための作品でもある。本書を手に取る様々な年代環境の読者にとっては、記憶による時間旅行をするためのツールともなるだろう。随所に散りばめられた記憶喚起装置のスイッチは、例えば方言による少女の会話だったり、昭和30年代の風景描写であったりする。

もともと作者の姫野カオルコ氏は、多彩な作風を持っていたが今回の「特急こだま東海道線を走る」で新境地を開拓したと言ってよいと思う。

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