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受難・文春文庫
2002年3月(単行本は97年4月文藝春秋社刊)

資料/聖フランチェスコによる平和を願う祈りの言葉

神よ、わたしをあなたの平和の使いにしてください。
憎しみのあるところに、愛をもたらすことができますように
いさかいのあるところに、赦しを
分裂のあるところに、一致を
迷いのあるところに、信仰を
誤りのあるところに、真理を
絶望のあるところに、希望を
悲しみのあるところに、よろこびを
闇のあるところに、光を
もたらすことができますように、
助け、導いてください。

神よ、わたしに
慰められることよりも、慰めることを
理解されることよりも、理解することを
愛されることよりも、愛することを
望ませてください。

自分を捨てて初めて
自分を見出し
赦してこそゆるされ
死ぬことによってのみ
永遠の生命によみがえることを
深く悟らせてください。


フランチェス子と古賀さんの物語。説明してしまうと構想と展開の面白味がなくなるので、例によって横道に外れます。上の絵(模写)はメインデルト・ホッペマの「ミッデルハルニスの並木道」。本書の重要なモチーフになっています。

章題に「エリーゼのために」が使われていますが、ベートーヴェンの生家はドイツの旧首都ボンにあります。昔ボンを訪れた時に、初めてそれを知ったんですが、歩道から見た生家は街並に溶け込んで訪れる人もまばらでした。実は私、恐いもの知らずというか・・・ボンのメインストリートの路上でギターを弾いたことがあります。なんと・・・それも「エリーゼのために」を。今だったら、ぜっっっっっったい、やりません。もう4半世紀経っているので懺悔いたします。恥知らずでした。ただ、当時はそうして街から街を旅しながら、路上でギターを弾いて生活費を稼いでいたんです。ストリートミュージシャンとか放浪の吟遊詩人とか言えばかっこいいんですが、ようはホームレスです。金がなければ公園や郊外の森で寝てました。上の絵はそんな郊外の風景を思い出させます。しかし、まるっきり書評になってないですね。

それでもかまわず話は横道に外れます。ん〜と、恋愛におけるエゴイズムとジェラシーについてでどうでしょうか? 例えば恋愛(取りあえず世間一般で流通しているもの)が壊れたあとにも、当事者同士が憎しみあっていたり、それまでの友人関係までいっしょに壊れてしまったり、ということがありますね。私には良く理解できない。だって、そもそも憎むような相手をどうして好きになれるんでしょ。それがわからん。文体が違ってますね。

人類は数千年間にわたって恋愛物語を紡いできているのに、未だに同工異曲の物語を欲するのでしょうか? どこかに別の物語はないのかとお探しの方には「受難」をおすすめいたします。読者はフランチェス子と古賀さんの会話に爆笑しつつ、ふと自分の望むものが「ミッデルハルニスの並木道」の部屋なのかどうかと・・・考えていることでしょう。そして私・・・私が心に強く強く受け止めたのは「羽飾り」を持つということ。しかし未読の人にはさっぱり意味のないことばっかり書いてますね。



ハイド版書評
「あそこに人面瘡が・・・」

自宅でコンピューターのプログラミングをしながら、物欲に囚われず質素に一人静かに暮らす女性。その名もフランチェス子。

ただただ当たり前の倫理観を持っているがゆえに、無意識下ですら男に媚びることなく普通に接する。ゆえに三十歳を過ぎても男と付き合うこともなく、処女である。なぜなら一般に雄としての男が求めるのは、無自覚の性であり、自然な雌としてのフェロモンを撒き散らす女性だから。

ところが物語はいきなりフランチェス子と古賀さんという人物の異常な会話から始まる。古賀さんとはフランチェス子の体にできた「しゃべる人面瘡」。しかも、知性豊かではあるがひねくれて意地悪な性格を持ち、フランチェス子の生活行動にいちいち皮肉な文句をつけると言うシロモノだった。性別は男。

物語は二人、フランチェス子と古賀さん、の会話で進行する。その異常な状況の密室的ダイアローグから見えてくるものは、無自覚な欲望に翻弄される現代日本の人々。

伝統的な日本の共同体的共棲の倫理や文化がなし崩しに消え去ったにも拘わらず、論理的帰結である民主主義も根づかず、あいまいに生きる人々。メディアを通して流布される情報は、ただ人々を無意味な消費に走らせるだけ。不況と言われながらも一般的な普通の家庭を持つ20才の女子学生が数十万円もするブランドバックを持つことの不思議。

もしそのカバンを一生使うのであれば、一つの実質的な価値と経済性さらには美学さえ持つかも知れない。ところが、多くの人々が求めるのはそういった実質ではない。メディアに溢れる情報を共有し、その枠組みの中だけで判断できる個性や主張そして安心感を求める。他者との差異は大きすぎてはいけないという日本的な和の精神がこうして歪んだ形で表出する。

一般的に人種や文化、宗教の違いに大きく左右されると思われる性愛に関する事柄は、突き詰めれば他者との肉体的接触によって得られる精神的充実感の表現方法と言えなくもない。性に関する一方的な情報が平気で茶の間のテレビに溢れる日本の状況は特異であるかも知れないが、そうした性の在り方に馴染めない人々も逆に増えている。

本書は主人公であるフランチェス子の潔癖とも言える性的倫理のゆえに、性に悩む人々にとっての福音でもある。フランチェス子と古賀さんの会話は、潔癖が高じてカルト的な原理主義に陥ることもなく、かと言って先鋭的なフェミニズムの攻撃性もない。しかしコミカルに笑いとともに綴られた性愛の姿は一つの理想を文学的に表現している。

作品で敢えて使われる卑語俗語の数々。けっしてテレビで放送されることはない言葉が並び、駄洒落や擬音も多用されている。にも拘わらず、読後感には崇高な聖性とカタルシスを感じるという希有な作品。 本書は1997年第117回直木賞の候補作にノミネートされた。しかし、作品の豊かな文学性と先鋭性を考えると純文学系の賞である芥川賞にノミネートされるべきであった。

キリスト教的なモチーフに現代日本の病理をコミカルに融合させて、さらに物語の王道でもある貴種流離譚の香りもする奇作。

そしてこれは世界文学史上始めて「聖人と人面瘡の愛の物語」でもある。

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